高倉学園50年のあゆみ

 高倉学園創立50周年を記念して編纂された「高倉学園50周年のあゆみ」を、ほぼ原型のまま転載しました。大正13年(1924年)の創立から、50周年の昭和49年(1974年)までの高倉学園のあゆみを詳しく知りたい方は、とても長い文章になりますが、ご一読ください。

 1543(天文12)年、ポルトガル船が種子島に漂着したとき洋服が紹介されたのが、わが国の洋裁史のはじまりといわれています。次いで、1549(天文18)年にカトリック教が入ってきましたが、当時は、洋服そのものでなく、和服の上に合羽、陣羽織を着たり、フリルをえりもとにつけたりする部分的なものでした。

 1861年(文久1)年になると、幕府が、講武所の調練伝習生および軍艦乗込御用方に様式を加味した軍服着用を許可し、その後、士官に呉絽ごろ服と称する筒袖つつそで服着用を許可するようになり、これと前後して、諸藩でも続々洋式軍服が採用されました。

 明治維新により、「文明開化」の世が訪れて西洋文明が急速に導入され、明治3年、常備兵員制が定められると、兵士の訓練服に、筒袖の上衣にももひき風のズボンという一種の改良服が採用され、次いで、明治5年に男子は大礼服、通常礼服を西洋式にし、女子は宮中の女官がこれにならい洋服化されました。

 明治10年ごろ、フロックコートやタキシードなどにかわる日常着として、当時のインテリ層は背広を着はじめました。明治16年、鹿鳴館が開館されると、いわゆる鹿鳴館時代の装いとなり、明治20年、皇后が婦人に洋装を勧告する思召書を下付してからは上流婦人の洋装が広まり、やがて、洋装に対する一般の人たちの関心が高まってきました。

 明治30年代にミシンが大量輸入され普及しだすと、子どもも洋服を着るようになり、大正に入ってからは、女学生は袴姿に靴というモダン調となり、大正7~8年には女学校の制服に洋服が採用され、以後、女子の洋装が一般化するようになりました。大正12年には、関東大震災を機として服装の機能的改良の必要が認められ、あわせて婦人の髪型は七三や耳かくしが流行し、新しい洋服時代の訪れとなりました。

 そして、この時代に、豊橋女子高等学校の歴史がはじまるのです。

開かれたとびら――愛知和洋裁縫女学校を設立――

藩校と寺子屋・私塾

 話は過去にさかのぼります。

 わが国においては、明治以前すなわち江戸時代に、武家の学校――藩校と、庶民の学校――寺子屋・私塾が数多く設けられていました。とくに幕末維新期には、全国の藩校数は270校にも達しています。この時期の藩校のいちじるしい勃興は、封建支配の基盤が動揺してきたことから、新しい学問つまり封建体制の崩壊を防ぐための実学の採用が、幕府ばかりでなく諸藩の先進的な指導者たちの眼に映りはじめ、下級の武士層を中心とする知識階級の大量養成が急務となったからです。ちなみに、幕府の思想統制の一端であった「蛮社の獄」(1839年)の犠牲者である田原藩家老渡辺崋山(1793~1841年)も、新しい学問、技術による「養才」を藩政改革の必要事と考えた指導者のひとりでした。崋山の教育観は、当時の進んだ指導者の思想の典型といわれています。

 また、諸藩は、藩内の主要な町などに郷学を設け、ここで地方に居住する武士の師弟の教育を行っていました。

 明治5年の「学制」頒布以前、まだ廃藩置県も行われていなかった尾張・三河地方に目を転じると、幕末には12の藩があり、そのうち、明治初年には、次表のように10藩が藩校を設けていました。現在の豊橋市公会堂があるところに、吉田(豊橋)藩士の師弟の学問所として藩校時習館がありました。このほか明治初年までに廃藩になっているものに、伊保藩、新城藩、奥殿藩、大浜藩などがあり、豊橋女子高等学校発祥の地――新城藩には、安永9(1780年)、藩主菅沼定前によって有教館と名づけられた藩校がありました。

藩校名藩名創立年創立時藩主備考
明倫堂尾張寛延2年徳川宗勝
敬道館犬山天保11年成瀬正住
時習館吉田宝暦2年松平信復
成章館田原文化7年三宅康和
崇化館挙母天明7年内藤学文
文礼館刈谷天保年間土井利徳中絶、明治元年再興
修道館西尾安政元年松平乗全
允文館岡崎明治2年本多忠直
学聚館半原明治2年安部信発
養正館重原明治2年坂倉勝達
(『愛知県教育史研究ノート』より抜すい)

 一方、庶民の教育機関としての寺子屋・私塾は、維新期に、いまの愛知県内には約4千あったといわれ、そのうち豊橋地方には100以上もありました。いずれも学制頒布を境に廃止されましたが、なかには明治12年まで開いていた秀文堂(新銭町)、同20年まで継続していた全久院(仁連木)などありました。これらの寺子屋・私塾をみると、他地方と同様に、師匠は僧侶がもっとも多く、50パーセントに及んでいます。教科目は、読み・書き・算盤と普通にいわれていましたが、大部分の寺子屋・私塾では習字が主で、読み・算盤は従でした。

 当時、東三河地方においても、学問をする者は生活にゆとりのある者だけで、一般の者は無学文盲でした。町人階級は、生活が比較的豊かでしたから寺子屋に入る者も多かったが、農村では、村役人の子どもぐらいが学ぶにすぎず、女子の地位が男子に比べてきわめて低かったので、女子で学問をする者はまれでした。

 もとより、統一的な教育機関がなかったことにもよりますが、むしろ教育そのものに関心がもたれなかったのです。この風潮は、当然、明治の時代に入ってもなお引き継がれました。しかし、女の道として裁縫だけはひととおり習ったもので、年ごろになるとお針塾へ通ったものでした。寺子屋の教師を「師匠」、ここに通う子どもを「筆子」というのに対して、女子は「お針子」と呼ばれました。ちなみに、江戸時代末期、新城地方の寺子屋・私塾で知られたもののうち、女子の学んだところをあげると、次表のとおりです。

新城地方における寺子屋および私塾

名称塾主(身分)学科沿革生徒教師所在地
太田良衛・
伊藤治郎助(僧侶格)
習字男約140、女約80男2家中
今泉忠左衛門(庄屋)読方・書方
・算盤
元文2年~明治5年男女とも30男2杉山
常法寺犬山麟瑞(僧)読・算・習
作法・法話
~明治7年男60、女20男2富永
慈眼寺象山和尚・
竜山和尚(僧)
読・書・算
・作文
男56、女52男2出沢
清水寺菅野照現(僧)読・書・算
・裁縫
~大正初め女50~60男1、女1八束穂
善勝寺佐津川良仙(僧)習字・読本~明治6年男20、女3男1日吉
常福寺三宅古仙(僧)習字・読本慶応元年~明治6年男5、女3男1日吉
原平八(庄屋)習字・読本安政3年~明治6年男5、女1男1日吉
洞雲寺松岳覚洲(僧)習字・読本天保14年~明治5年男25、女5男1富岡
観音寺(僧)習字・読・書男5、女5男1富岡
瑞雲寺(僧)習字・読本文久3年~明治20年男5、女5男1富岡
浅見与兵衛(御用達)習字・読本明治5年~明治9年男17、女3男1富岡
松井源次(庄屋)習字・読・
書・算
安政5年~明治5年男15、女1男1庭野
(『新城市誌』より抜すい)

 幕末から維新にかけてとうとうと押し寄せた欧米勢力に対し、東洋ではほとんど日本だけが固く主権を守り、先進諸国の知識・技術を吸収しながら有数の国力を誇る工業国にまで発展したあゆみは、たしかに世界の歴史のなかでも大きな驚異といえましょう。この底力は何を源泉としているのでしょうか。この秘密を解くカギのひとつとして考えられるのは、異質の文化をたくみに消化する日本人の資質とともに、幕末維新期において、すでにかなりの水準にまで達していた教育の普及があげられます。

 「ちょんまげ頭をたたいてみれば、因循姑息いんじゅんこそくの音がする。ザンギリ頭をたたいてみれば、文明開化の音がする」――目まぐるしい時代の変貌に、大きな驚きと、とまどいにぶつかった日本人は、まもなく自信を取りもどし、「和魂洋才」の自覚を土台に、近代国家建設のスタートを切ったのです。

近代教育事始め

 明治維新後、わが国は、何よりもまず早急に国民を統一して、近代国家の体制を確立し、欧米先進諸国の圧力に対抗しなければなりませんでした。このために維新政府は、まず「殖産興業」と「富国強兵」およびその基礎がためとしての「国民啓蒙」を当初の政策として打ち出しました。そして、新日本の教育の根本方針は、明治維新の綱領――「五箇条の御誓文」のなかに明瞭にあらわれ、以後、明治史を一貫することになりました。

 明治5年8月、わが国最初の教育法である「学制」が頒布されました。すでに前年、廃藩置県が断行され、文部省も設置されていたので、ここに初めて画一的な教育制度が確立されたのです。学制頒布にあたり学事奨励のために出された「被仰出書おおせいだされしょ」のなかで「・・・・・・むらに不学の戸な家に不学の人なからしめん事を期す・・・・・・」と述べており、こうして、国民皆学の原則が打ちたてられました。

 このため学制は、全国を8大学区(翌年7大学区に改める)にわけ、各区に大学校一つをおき、各大学区を32中学区にわけて各区に中学校一つをおき、各中学区を210小学区にわけ各区に小学校一つをおいて、全国に8大学校・256中学校・5万3,760小学校を設立し就学の機会を準備しようと計画しました。なかでも6歳から9歳までの下等小学と、10歳から13までの上等小学の尋常小学8年間の課程を、「男女共必ス卒業スヘキモノトス」(学制第27章)と定めて、わが国における義務教育制度の濫觴らんしょうとなりました。

 この学制に関しては、今日では種々の観点から批判される余地もないではありませんが、当時としてはきわめて進歩的な性格をそなえ、教育の近代化の方向を一応正しく指向していたものでした。

豊橋地方における明治初期の教育

 「学制」が頒布された当時、大多数の県では、依然として政府方針とは別に、従来のままの体制が維持されていました。

 豊橋地方では、学制頒布の前月末、すなわち明治5年7月末、旧来の寺子屋・私塾より進歩したもの、つまり、秀才をより広い源泉から吸収しようという意図から4郷校が設立されています。郷校東校・南校・北校・西校です(のちに1校設立し5郷校となる)。この4郷校はいずれも元寺子屋でした。さらに同年11月、八名郡藤ヶ池村金西寺内に藤ヶ池郷学校が設立されました。また新城地方では、同年5月に新城郷学校が設立され、近郷の寺子屋筆子たちが入学しています。続いて、半原郷学校も同年7月、さらに平井郷学校、野田郷学校も年内に設立されています。

 明治6年1月、豊橋5郷校が廃止され、あらためて悟真寺、龍拈寺りゅうねんじの2ヵ所となり、前者は豊橋義校、後者はその分校となりました。また藤ヶ池郷学校も藤ヶ池義校と改められました。義校設立の意図は、「人に学問を勤めさせ、各々性質の才を発し、知識を増さしめ」るにあり、その学問は、新しい時代に即応する「世の中の用を為す」実用の学問でした。とくに愛知県ではこの義校設立に熱意を示し、『学問のさと』を出版して(明治5年5月)県内に配布したりしています。同書は、福沢諭吉の『学問のすゝめ』の本文をそのまま借り、わずかに補筆したものです。

 郷学校を義校と改称したことは、豊橋地方だけでなく一般的風潮でしたが、明治6年2月、愛知県では、これまで郷校の設置がなく、寺子屋・私塾によって教育を施していた村々に対して、さらに一村一校の目的で義校を建てさせようとし、すでに開かれている寺子屋・私塾に対しては「官許を受けたもののほかは、以後一切存続を許さぬ」こととしました。このため、同年5月には県下に428の義校が設立されました。それが母体となり学制による小学校へ移行しようとしたのです。いうなれば、義校ならびに郷校は寺子屋から小学校への過渡的存在でした。

 このように、豊橋地方など中央からほど遠い地方においては、学制頒布による急速な変化はみられなかったのです。豊橋地方に、事実上、学制が実施されるようになったのはこの明治6年に入ってからです。

 全国を7大学区(当初は8大学区)にわけた学制により、愛知県は、浜松、渡会、岐阜、三重、静岡、石川、筑摩、敦賀の諸県とともにその第2大学区に属しましたが、明治6年5月、1中学区人口13万人を単位として10中学区にわけられました。これにより、設楽・八名両郡は第9中学区に属し、宝飯・渥美両郡は第10中学区となったのですが、さらに、1小学区に1小学校、10中学区に合計2,100小学を建設するため、1中学区は210小学区に分割されました。

 こうして小学校設立の運びとなりました。しかし、なにぶんにも当時は明治維新の変革後わずかに5ヵ年余、諸事革新のあわただしい際であり、このような大計画を一時に実現させることはとうてい不可能なことでした。このため、管下2,100小学区に対する小学校の設立を一時保留して、とりあえず600小学を設立し、他は漸次増設することにしたのでした。同年10月末までに、豊橋地方では16小学校が設立されました。もちろん、悟真寺、龍拈寺の2義校と藤ヶ池義校はそのなかに加わっていましたが、大崎村の南・北義校は廃止して、別に同村龍源院に1小学校を設立しています。

 児童の就学に関しては、学制第12章に、「一般人民華士族農工商及婦女ノ学ニ就クモノハ之ヲ学区取締ヘ届クヘシ若シ師弟六歳以上ニ至リテ学ニ就カシメサルモノアラハ委シク其由ヲ学区取締ニ届ケシムヘシ」とありますが、小学校設立に際しては、すでに義校に在学していた者は満6歳以下の者でも入学を許しました。さらに愛知県においては、翌7年1月、「入学ハ年齢六歳ヨリ十三歳ヲ限ルト雖モ、当分ノ内十三歳以上ノ者モ入学差免スヘシ」(愛知県小学規則第26則)と規定して、学齢を明らかにするとともに融通性を与えました。このため、初期小学校の就学児童年齢は不ぞろいとなり、16、7歳に達していた者もあったようです。

明治後期の教育

 自由民権運動が活発化していた明治12年9月、「学制」が廃止されて「教育令」が制定されました。それは、フランス的画一干渉主義といわれた学制からアメリカ的自由主義、地方委任主義への転換でした。が、この教育令が、学校の設置経営を自由にしたということで小学校を廃校するところもあり、地方によっては就学率の低下があらわれたことから、翌13年12月、この教育令は改正され、学校の設立・就学の督励などの規定が強化されるとともに、教育に対する国家規準が明治されました。

 「明治の思想は西洋の歴史にあらはれた三百年の活動を四十年で繰返してゐる」――夏目漱石が『三四郎』で書いていますが、明治18年12月には中央官制の大改革が行われて新たに内閣制度が採択され、初代内閣は伊藤博文以下薩・長を中心とする政治組織となり、森有礼が初代文部大臣となりました。そしてこの時代的背景ともとで、翌19年4月、義務教育制を初めて標榜した小学校令をはじめ中学校令、師範学校令、いわゆる「学校令」が公布されました。この学校令は、小学校を教育体系の基礎として、大学にいたるまで整然と一大体系を構成し、以後のわが国教育制度史上に一新紀元を画したものでした。その後、わが国の近代国家体制は政治のうえでは「大日本帝国憲法」の発布(明治22年)によって基礎が築かれ、国民道徳の面では、その精神的支柱として明治23年10月30日の「教育ニ関スル勅語」の発布となり、学校では祝日や式日に御真影が礼拝され、この「教育ニ関スル勅語」が奉読されることになりました。それから55年間、第2次世界大戦終結まで、このきまりは厳守されました。

 さらに、明治の後半に勃発した日清・日露両戦争の結果、国家主義(強兵)と資本主義(富国)とがいちだんと明確な意識のもとに追求されるようになり、同時に、それは自然主義と個人主義の芽生えを飲みつくし、日本的自我にまで統一されていきました。この力が当時の世相を構成し、現実的には、「世界のなかの日本」の旗印のもとにいっそう「強き日本人」の育成をめざしたこの時代の教育の動向でもありました。この期の教育を一貫する根本テーゼは、「健全ナル国民ノ養成ハ普通教育ノ振興ニ侯ツ其ノ局ニ当ル者益々励精セヨ」の御沙汰書(明治44年10月)によって代表されます。

 この間、明治40年3月には「小学校令」の改正が行われて尋常小学校義務教育年限が6年延長され、翌41年9月には視学官および視学委員をおく一方、産業教育も重視されました。「実業教育費国庫補助法」(明治27年)、「実業学校令」(同32年)、「専門学校令」(同36年)の各公布、「高等女学校令」を改正して実科または実科高等女学校の設置を認める(同43年)、高等小学校に手工・農業・商業などの必須科目をおく(同44年)、「中学校令施行規制」を改正して学科目に実業を加える(同年)などは、いずれも産業技術者養成のための教育施策でした。

 こうして、明治44年には就学率98パーセント、通学率90パーセントとなり、義務教育制の内実がほぼかたまりました。

明治期の女子教育

 ところで、「学制」頒布の際に出された「被仰出書」のなかで、「・・・・・・従来学校の設ありてより年をること久しといへども或は其道を得ざるよりして人其方向を誤り学問は士人以上の事とし農工商及婦女子に至つては之を度外におき学問の何物たるを弁ぜず・・・・・・」といい、女子も男子と同じように学問させるようにと強調したことから、急速に女子教育もとりあげられるようになりました。そして、女子教育のための公・私立の学校がいくつか開設されたけれども、ごく特殊な人々が入学するだけでした。明治初期には、女学校といえば、明治5年に設立された文部省直轄の東京女学校や、明治8年に設立された神戸英和女学校(のちの神戸女学院)ぐらいで、それと、明治7年に設立された官立の東京女子師範学校や、あとでもふれますが、明治9年に設立された名古屋の女範学校ぐらいでした。

 女学校の数がわりあいに多くなり、入学する女子の数も目だって増えるようになったのは明治15年ごろからのようです。しかし、この15年においてされ、全国の公立女学校の数はわずかに5校、生徒数は合計286人、一校平均57.2人にすぎませんでした。当時の記録によると、公立女学校の数よりも私立のほうが多かったといわれていますから、私立女学校の生徒数が300人を超えていたと仮定しても、全国の女学生の数は、千人に足りなかったかもしれません。

 女子教育がようやく盛んにないはじめたのは明治18年ごろからです。そして、学校制度に関する規程のうちに高等女学校の名称が初めてあらわれたのは明治24年12月の「中学校令」改正のときです。そのなかで、新たに女子中等教育の規程が加えられ、高等女学校を尋常中学校の一種とし、男子の中学校に対応する女子の中等学校であることを法制のうえで明らかにしました。ちなみに、明治15年に、東京女子師範学校は付属高等女学校を設置していますから、これが高等女学校の嚆矢こうしともいえるでしょう。

 また明治26年7月、文部省は、女子の就学を促進するため、小学校になるべく裁縫の教科をおくよう勧奨しています。この年、女子の小学校就学率は40.59パーセントとなりました。

 日清戦争後、女子教育は急激に発展しました。明治28年1月には、初めて独立規定としての「高等女学校規程」(尋常小学校4年修了で入学・修業年限6年)が公布され、さらに、同32年2月には「高等女学校令」、同34年3月には「高等女学校令施行規則」がそれぞれ公布され、ここに、女子教育に関する法令規程が整備されました。

 修業年限4年を原則(3、5年も認める)としたこの高等女学校令というのは、いままで中学のなかに加えられていた女学校を独立させ、女子の高等普通教育機関とした点に大きな意味をもっていたばかりでなく、各府県に必ず一校以上の女学校を設立しなければならないと定めたこと、この点で、女子教育の発達のうえに重要な意味をもっていました。もちろん、この背景には小学校への女子就学率の増加があります。

 その後、同43年10月、この高等女学校令、同施行規則は改正されました。日露戦争後、女子教育を施す学校がさらに増設され、これらの学校のなかには、女子に対して実生活に必要な技芸を主として授けるところが多くなりました。しかし、その教育内容が高等女学校とは異なるために準拠する規程がありません。このため、実科教育を主とした高等女学校の制度を設け、家庭婦人としての実生活にただちに応じることのできる教育を行う学校を設立することにしこの改正となったのです。この改正により、高等女学校においては、主として家政に関する学科目を修めようとする者のために実科をおくこと、実科だけをおく高等女学校の場合には、学校名に実科をつけることになりました。実科の修業年限は、①尋常小学校卒業程度を入学資格とする場合は4年、②高等小学校第1学年修了程度を入学資格とする場合は3年、③修業年限2年の高等小学校卒業程度を入学資格とする場合は2年(ただし1年延長もできる)と定め、したがって、実科高等女学校には4年、3年、2年の3種があることになりました。学科目は実科においては裁縫に多くの時間を当てていること、実業を加えることを特色としました。こうして、実科高等女学校が誕生することになりました。

 高等女学校は、高等女学校令公布以後増設が続き、明治27年に14校であったもの、同33年には52校、生徒数1万1,984人、同38年には100校、生徒数3万1,918人、同43年には193校、生徒数5万6,239人となり、一方、実科高等女学校は、この制度を実施した同44年には49校でしたが、大正4年には143校、その生徒数2万117人と増加しました。本校発祥の地である新城町(現新城市)にも、明治44年に町立実科高等女学校が設立され、翌45年4月に開校しています。

愛知県下の女子教育

 ここで、明治期における愛知県下のおもなる市立女学校の開設状況をみると、明治33年に金城女学校、同35年に豊橋裁縫女学校、同37年に愛知裁縫女学校、同38年に中京裁縫女学校・愛知淑徳女学校・名古屋裁縫女学校、同39年に安城裁縫塾・岡崎裁縫女学校、同40年に名古屋女子商業学校・松操裁縫女学校、同42年に満田裁縫塾などが設立されています。

 なお、愛知県では、明治6年に名古屋と岡崎に養成学校(のちに愛知県師範学校と改称)を開設するなど、他県と比較して、明治の初期から教員養成にはことのほか熱心でした。翌7年には官立の師範学校や外国語学校が設立されたこともあって、それはさらに促進され、とくに女教員養成にはいちだんと力を入れ、明治9年には名古屋に女範学校を設立しています。

 この女範学校は、女子に中等程度の普通教育を施し、兼ねて女教員も養成することを目的としたものでした。しかし、男子の教育すらその必要を感ずる者が少ない時代でしたから非難のみ多く、また、学科はおもに英語を教授するなど高尚でありすぎて、効果も十分ではありませんでした。そこで、明治11年2月に愛知県女学校と改称して生徒を募集しましたが、応募者は100名内外にとどまり、学校廃止説がおこる始末でした。そして、ついに翌12年9月、師範学校女子部と改称しています。

大正デモクラシーと新教育運動

 国民の祈念もむなしく明治天皇が崩御されて(明治45年7月)皇太子嘉仁親王が践祚せんそ、大正の治世となりました。以来、大正15年までの15年間には政治的・社会的事件が相次いでいます。すなわち、大正3年7月には第1次世界大戦が勃発し、わが国は日英同盟の情誼を理由に、翌8年に対独宣戦を布告しました。同7年8月2日にはシベリア出兵を宣言し、その翌日には米価の暴騰から富山県西水橋町に米騒動がおこり、全国に波及しました。同年11月にはドイツが降伏して、動員兵力6,500万、死傷者2,900万、戦費1,860億ドルという第一次大戦が終結し、翌8年6月には講和条約・国際聯盟規約が締結されましたが、この年は、物価高騰にともなう生活困窮、ロシア革命(同6年11月)、米騒動などの影響もあって労働運動が高揚し、翌年にかけて争議は大規模かつ激越となりました。同12年9月1日、突如襲った関東大震災は未曾有の被害を国民に与えました。震災後、国内のあらゆる分野は「モダン調」をおび、国民の生活を一変させました。

 一方、戦後の反動恐慌のなかで、大正期におけるわが国の教育界は、国民の自由と権利を尊重するデモクラシー的思考に大きく位置づけられ、新教育思想や運動が花開きました。

 そのまえに、ここで、教育施策の変遷に少しふれてみましょう。

 大正6年9月、時の寺内正毅内閣は多年懸案となっていた学制改革を解決するため、内閣直属の調査諮問建議機関として臨時教育会議を設置しました(同8年廃止・臨時教育委員会設置、同10年同委員会廃止・教育評議会設置)。これによって、第一次大戦以後の教育全般の指針となった改善プランが打ち出され実現に移されたのです。就学率の向上にともなう市町村の負担軽減のための「市町村義務教育費国庫負担法」の公布(同7年3月)、国民道徳の養成を加えた「中学校令」の改正公布(同8年2月)、中・小学校の教科課程の改正(同年3月)、従来の目的のほかに国民道徳の養成と婦徳の涵養を盛り込んだ「高等女学校令」の改正(同9年7月)、実業教育振興のため実業補習学校の普及など整備拡充をはかった「実業学校令」の改正(同年12月)などがそれです。さらに、あとで述べる新教育運動の高揚と並行して、大正11年以降、歴代文部大臣は、国民のより高い段階の教育を求める傾向に対応して、各種の学校形態に大きな改訂を加えつつ、いわゆる「思想の善導」を方針に掲げそれを教育全般に反映させていきました。

 こうして、大正時代にかけてわが国の近代教育制度は確立され、しだいに整備されてきました。大正8年当時、全国の高等女学校数(実科高等女学校も含む)は462校、その生徒数は12万人余でしたが、大正末年には819校、その生徒数29万人余と倍加しています。豊橋市内中等学校の入学志願者数も、大正11年には激増していると記録されています。

 さて、児童の自発的活動を主張した樋口勘次郎、自由性の発展を説いた登張竹風、自学補導をとなえた谷本富や分団式動的教育法を強調した及川平治、児童中心主義の自学教育をうたった西山哲次らの明治時代における先駆的動きが支点となり、多彩な表現をとりながら展開されたこの期の新教育運動は、児童の個性とその創造性を尊重するという清新な風を吹き送り、わが国教育史上にエポックを画するものでした。とくに、アメリカから紹介されたデューイの「民主主義と教育」は教育界を魅了したものです。大正10年ころには、前記及川の主張のほか、樋口長市の自学教育論、河野清丸の自動教育論、手塚岸衛の自由教育論、稲毛金七の創造教育論、千葉命吉の一切衝動皆満足論、小原国芳の全人教育論、片山伸の文芸教育論は、いわゆる「八大教育主張」として喧伝されました。

 これらの主張・実践にもっとも関係のあった欧米輸入の新教育思想のおもなものは、ブッデの人格的教育学、ウェーバーの芸術教育論、ケルシェンシュタイナーの労作教育思想、ナトルブの批判的教育学、デューイの社会的教育思想、エレン・ケイの自由主義教育思想、また、児童の自主的研究を強調したダルトンプランなどです。さらにはまた、鈴木三重吉、北原白秋、山本鼎らによる児童雑誌『赤い鳥』などを舞台として展開された芸術自由教育運動などがあり、全国を風靡したのでした。この新教育運動は、明治の画一的な一斉教授への批判から出発しただけに、従来の教授法を一変させる性格をもっていたことはいうまでもありません。

 このように、多彩な新教育運動、学校教育の普及に対応して、国民の教育機会の拡大が促進されていたこの期に、豊橋女子高等学校の前身――愛知和洋裁縫女学校が呱々ここの声をあげたのです。

下山、高倉の出会い

 新教育思想や運動、なかでも、大正9年ごろからダルトンプランの新教育思想が愛知県内にも紹介され、大きな影響をもたらしました。とくに同13年4月に同プランの創始者ヘレン・パーカスト女史が来訪し、翌5月9日、ダルトンプラン講演会が愛知県会議事堂で開催されてからは、県内は、さながらダルトンプラン一色に塗りつぶされた観がありました。豊橋女子高等学校の前身である愛知和洋裁縫女学校発祥の地――新城の町もまたその例外ではありませんでした。

 この講演会で、同女史は、児童の自主的研究を強調する同プランの紹介をし、その後、全国を歴訪していますが、これを契機に、県内には同プランの実験的試みをする学校が増えてきました。

 ところで、かつては「山の湊」と呼ばれ、豊川中流の交易都市として栄えた新城の町は、馬と川舟による物資集散の問屋がことごとく姿を消し、大正時代には、南設楽郡と八名郡の中部から北における産業・経済の中心となり、消費の町としていろいろな商店が軒をつらねていました。『新城の今昔』(熊谷丘山著・大正13年6月発行)には、次のように書かれています。

・・・商家は六〇一戸であって、新城商工会などもあり、だいたい発展の機運に向かっている。新城の土地は、肥えている方であるから、農業にも適している。現在(大正十三年)農家は一一六戸あるが、近ごろは養蚕が盛んになって、まゆの生産高も多い。ほかに、酒、醤油、木製品、清涼飲料、履物、たび、服薬用オブラート、菓子、干うどんなどの産物があって、盛んに各地方へ輸出している。・・・・・・

 この新城の町で、2人の先覚者が相まみえることになります。2人の先覚者とは、下山嘉一郎(初代校長)と高倉半次郎(第3代校長)です。この2人のめぐりあいがなかったら、今日の豊橋女子高等学校は存在しなかったでしょう。

 愛知和洋裁縫女学校誕生の動機は、創立10周年に際し校友会機関誌『和洋』に寄せた2人の次の一文にすべて言いつくされています。

・・・もと私は洋裁に関する技術に就ては自信をもつてゐましたが、教育には全く無経験のものでありましたけれども、当時の高等女学校があまりに知的であつて実際的でないのと、裁縫を主要科目とする裁縫女学校や補習学校に於てさへ、裁縫が和服のみに傾いてゐるのを見て、世運の進歩と時勢の要求の上から、もつと実用主義の学校を設立し、婦徳を涵養し婦人として欠くべからざる実際的の教育を施すことが必要であると痛感するに至り、只この女子教育に対する急務を思ふ一念から、当時在住して居た南設楽郡新城に於て、自分の主義を実行すべき愛知高等和洋女学校を設立する計画を立てました。其の当時、現校長であらせられる高倉先生は、南設楽郡視学として御在職でありました関係上、教育に無経験の私は陰に陽に先生から多大なる御援助と御指導に預りました。

――下山嘉一郎――

 丁度十年前の大正十三年の夏であった。当時私は南設楽郡視学として新城町に居た。同町の洋服店主下山嘉一郎氏、見識あり気骨あり偶々役所にて相会ふ中に或は談じ或は論ずることの回重なり、その間の話が遂にこの学校設立のことに及んでいつたのであつた。即ち先づその瀬踏みとして其の夏休みに新城の女学校の一室を借りて洋裁講習会を開催された際も私は開会の挨拶を述べたのを記憶する。
 愈々万端の書類を具して設立認可の申請書を本県へ差出したのが実に大正十三年八月二十三日であつた。

――高倉半次郎――

 このように、下山、高倉の2人は、同一の結論を得て意気投合しました。このとき、愛知和洋裁縫女学校が芽生え、車の両輪を得てあゆみはじめたのです。そして、高倉が諸調査の相談にのり、設立認可申請書類の作成に筆をとるなどし、将来とも助け合い、相携えて女子教育の理想実現に邁進することを誓い合ったのでした。

 しかし、大正13年8月30日、高倉は西加茂郡視学に転じることになり、その後は、設立認可や開校を目の当たり見ることなく、下山からの時おりの消息や、学則変更の際とか新築移転にあたって訪問を受け相談を受けるという歳月の経過がありました。

愛知和洋裁縫女学校の誕生

 大正13年10月3日、愛知県知事から、愛知和洋裁縫女学校設立の件が認可されました。そこで翌14年の新学期から開校することにして、同月、ただちに設立趣意書や校則を発表し、生徒募集が行われました。同校設立にあたり、設立者である下山嘉一郎は、その趣旨を次のように述べています。

・・・翻って一般女子教育に於ける裁縫科を眺めますと小学校はさておき、高等女学校や専門を標榜する裁縫女学校、補習学校等に於て殆ど裁縫といへば和服のみに傾き稍々進で僅にミシン使用法の一端を学習せしめる位に終るのは如何にも時代の趨勢に伴はないものと思ふのであります、玆に於て私は世運の進歩と時勢の要求とに鑑み真に現代婦人として着実有為なる婦女教養の趣旨を以て愛知和洋裁縫女学校設立を企画し、当局の認可を得て、大正十四年四月より開校する運びに致しました、実に本校は普通教育の上進と婦徳の向上とを計り以て時運に伴ふ有為の婦女を養成するを以て目的とし
一、普通学の上進と婦徳の修養を重じ併て体育の向上を図り
二、主婦として欠くべからざる和服及び洋服の裁縫を授け
三、将来職業婦人としても独立し得べき実技の練磨に力め
以て国家社会の進運に全幅の努力を捧げんとするものであります。

 この設立趣意書で述べている目的は、大正期、全国を風靡した教育改造の運動、これと無縁ではないように思われますし、同時に、「高等女学校令」や「実業学校令」などの不備な点をカバーしようと志向した先進的な意図がうかがわれます。そして、3つの指針は、以来、50年の歩みのなかを一貫して流れ、現豊橋女子高等学校に継承されています。

 大正13年12月26日、「教育ニ関スル勅語」謄本が下付され、一切の準備が整ったのは翌14年4月3日でした。入学志願者は32名ありましたが、うち23名の入学を決めました。そして、南設楽郡新城町字町並108番地の下山洋服店を仮校舎にし、4月10日午前11時から開校式に続いて入学式が行われました。初代校長には下山嘉一郎が就任しました。開校当時の規模、生徒・教員数は次のように記録されています。

教室坪数12坪(うち作法室兼応接室8坪・職員室4坪)
校地300坪
生徒定員(一)本科2年(高小卒入学)100名
(二)研究科1年(高女その他卒入学)10名
教員数男子4名、女子1名

 当時の思い出を、卒業生は次のように綴っています。

・・・・・・大正十四年四月十四日新城町下町下山洋服店の二階で、開校式につづいて入学式が挙行された。私は本科入学生の一人として入学を許されました。来賓の数に比し生徒数本科十六名、研究科三名、で一寸異様な感じでした。海老茶袴の裾に日本一の(二本と一本)の白線をつけて「私も日本一和洋学校の女学校の生徒よ」と優越を感じたものでした。当時時を同じうして新城裁縫女学校が設立されましたので、其の対照として特に感じました。私共の教室は下山洋服店の二階で、階下ではミシンの音洋服職人の笑ひ声、階上では僅か十七八名の生徒が二間に三間の教室で唱歌や体操の稽古等道行く人の足を止めたものです。運動場は勿論なし、割烹室も、作法室もないただ一つの教室で作法もすれば割烹もする、学科は勿論唱歌、体操までやる始末でした。

――本科第1回卒業 田川きく(旧姓荒川)『実修』より――

 右の文中に出てくる新城裁縫女学校は、2ヵ月後の大正13年12月に私立の女学校として設立されたものです。こうして、本格的な和洋服教育の第一歩が踏み出されました。

校舎の新築と移転

 大正の末ごろまでは、一般の人々の服装はほとんど着物(和服)でした。新城地方でも、洋服を着ているのは学校の男子教師と駐在所の巡査くらいのものでした。が、洋服といっても、巡査も男子教師の服も、詰襟、黒ボタンという質素なものでした。背広服が普及しはじめるのは昭和の初めになってからです。中等学校の制服は早くから詰襟服になっていましたが、小学校に通う子どもたちはほとんど着物で、洋服姿が出回りはじめたのは、これも昭和になってからです。

 女子の洋服が一般化するのはもっと遅く、大正7~8年に女学校の制服に洋服が採用されたとはいっても、新城地方では、女教師も女学生もまだ着物で、腰高に袴をつけていました。まえにふれた新城町立実科高等女学校は、大正5年に町立高等女学校と改称し、さらに同12年に県営に移管されましたが、この県立新城高等女学校の制服が洋服に改められたのは大正15年でした。小学校女児の洋服化は男児よりもっと遅れました。女教師や小学校女児の服装がすべて洋服に改められたのは、昭和12年にはじまる戦時生活以降です。

 服装教育の将来に確信をもっていた下山校長は、すでに大正13年11月29日に洋服裁縫教員の認可を得、開校当初から、経営はもとより、不断に研究しつつ、みずから教壇に立ち情熱を傾けて講義しました。開校の年、大正14年の『学校日誌』をひもとくと、次のように記述されています。

四月二十六日 本日課外トシテ下山校長有志生徒十六名ニエプロン教授ヲナス
五月十四日 スカート裁チ方ニテ多忙ナリ
同 十六日 生徒スカート実習
同 十九日 スカート出来上ル
同 二十六日 洋服裁縫ニテ生徒上着ヲ作ル

 また、この年の8月2日から5日間、新城小学校において、本校主催により下山校長を講師として第2回愛知洋服講習会を開催しています(会員15名<申込み35名>)。『学校日誌』によると、「洋服講習会員ハ非常ノ熱心ニテ午後二時閉会後更ニ授業ヲナスコト四時間、毎日六時ニ至リテ閉会ス」と記録されています。

 徐々に学校として体面もでき上がってきたことから、同年11月28日には、認可を得て学則を変更し、本科、研究科のほかに実科2年(尋小卒入学)と速成科1年(高小卒入学)を設置しました。この両科は翌15年から実施しました。

 ところで、新城町は、なんとしても地域が狭隘きょうあいでした。そこで、将来の発展にそなえて豊橋市近郊に移転する計画がたてられました。そして、渥美郡高師村大字福岡字鍵田364番地(現在地)に1,276坪の校地を取得し、同年秋から建築に着手しました。

 4教室・寄宿舎・炊事場などが竣工し、翌15年1月21日、移転式を行い、2月15日、新校舎に移転しました。同時に、同年4月からは愛知高等和洋裁縫女学校と改称しました。

 学校の名声はしだいに広がり、大正15年度の入学者は36名(本科22、速成科12、研究科2)となりました。また、同年7月6日には新たに小久保象之助が設立者に加わり、基礎を積み重ねていきました。

花開く柳生河畔――愛知高等和洋女学校と改称――

重い時の流れのなかで・・・・・・

 大正9年からはじまった戦後恐慌は、昭和に入るとさらに険悪さを加えました。そこで、慢性的な不況から抜け出るために、時の浜口内閣は、世界の大勢となっている金輸出解禁に踏み切るべく、緊縮政策を浸透させて為替相場を安定させ、物価を世界水準にまで引き下げて輸出を増やすよう努力しました。そして昭和4年11月、金解禁に関する大蔵省令を公布し、翌5年1月から施行することを明らかにしました。ところが、同内閣が金解禁断交を決定したときは、すでにニューヨークのウォール街では株式市場の大暴落がはじまっていました。

 4年10月24日におこったこの暴落は世界市場未曾有の大恐慌の発端となり、愛知県においても、愛知農商銀行の臨時休業(昭和5年12月)、村瀬銀行の倒産(7年3月)、岡崎額田銀行の支払い停止(同月)、名古屋三大銀行のひとつである明治銀行の倒産(同月)・・・・・・と続き県下に四十数行あった銀行が倒産したり合併したりして、名古屋市内では愛知・名古屋・伊藤の3銀行、郡部では稲沢・岡崎・大野の3銀行だけになってしまいました(のち東海銀行として一本化する)。一方、映画「大学は出たけれど」が共感をよぶほど就職難もまた深刻化しました。この大恐慌は、その後の世界、そしてまた、日本の進路を大きく変える力となったのでした。すなわち、ヨーロッパとアジアを巻き込む全面戦争の道へ傾斜していったのです。

 政局の転換が準備されはじめ、国内は急速に変容を迫られ、デモクラシー的風潮がしだいに姿を消していきました。この内外の緊迫した情勢は教育施策全般にいちだんと厳しさを加えて波及し、愛知県の教育もまた、この波のなかで苦難の道をあゆまざるをえませんでした。いわば準戦時体制下、具体的には、全教育体系にわたって、「忠良なる臣民の育成」という国体主義・国家主義的方針が貫かれていったのですが、その間、良心的な教師たちは、周囲に横たわる多くの障害を乗り越えて、新しい教育の場を求めて前進しました。それが、生活綴り方教育(4年以降)、郷土教育(6年以降)、生活教育(10年以降)などの諸運動です。

 愛知県下の生活綴り方教育・郷土教育・生活教育運動なども、この全国的な気運のなかで展開されました。なかでも生活綴り方教育運動は、大正年間の『赤い鳥』の系譜をひきながら、生活改善の方向として、また教育の方向として、社会生活を表現し調べる綴り方を書かせることを主張した教育運動であり、第3代校長高倉半次郎は、早くからこの生活綴り方教育を試みたひとりでした。

 ひとくちに戦前とはいうものの、昭和11年までの10年間は、険しい、そして厳しい期間でした。その間、本校は一時的な沈滞期を迎えましたが、やがてそれから脱し、創立10周年を迎えたころには全く基盤が確立し、文字どおり柳生河畔に花開いたのでした。

 では、重い時の流れのなかで、高い女子教育の理想を掲げて前進したそのあゆみを、時代を追って摘記してみましょう。

高倉半次郎の再登場

 昭和3年度の入学者は63名(高等実科15、本科22、速成科20、研究科6)とこれまでにない多数となり、この年当初の生徒数は100名近く、教職員10名のうち大半は有資格者という、まずひとかどの学校としてそのかたちをそなえるようになりました。

 ところが、同年5月29日、一身上の都合から校長下山嘉一郎が退任するという事態が生じました。これが混乱の発端です。そして、後任として東海林茂が第2代校長に迎えられましたが、他に職をもつ東海林校長の来校はまれのことで、したがって学校内部の統制に欠け、また一方、経営状態も行き詰まるという不安きわまりない日が続きました。

 こうして、ふたたび、高倉半次郎の登場となるわけです。

 その基礎がかたまり、年を追って発展の諸についたこの時期、学校の内実をきいた高倉は、前進の愛知和洋裁縫女学校設立にあずかり、下山とは、将来とも助け合い、相携えて女子教育の理想実現に邁進しようと誓い合ったいきさつもあったので、本校再建に乗り出しました。ときに昭和3年12月でした。そして翌4年1月1日、新年の式から第3代校長に就任し、まず当面の未払金を清算して学校の経済上の暗影を除いたのでした。当時の設立者は下山嘉一郎、小久保象之助両名の名義でしたが、下山が事実上学校から退いたため、実際は小久保一人でした。

 さて、昭和4年度の入学者は40名(実科1年1、同2年2、本科8、速成科23、研究科5)と決まり、新学年がはじまろうとしていた3月下旬のことでした。突如、某氏が、本校の財産すべてを買収し、小久保校主を説いて譲渡の契約を取り交わすという出来事が表面化しました。致し方なく高倉校長は、それまでの出資(約6,500円)のいくぶんでも返却してもらえばと同意し、身を引いたのです。が、事実は、その契約たるや全く空約であったことがやがて判明しました。そこで同年6月7日に及んで、高倉校長は座視するに忍びず、奮然たって小久保校主との間に数次の交渉を重ねたすえ、学校の建築物および什器の所有権を高倉名義に移したり、借財を弁済したり、さらに、同年8月23日には認可を得て設立者に加わるなど、献身的に学校経営にあたり、8月までに一切を解決し、すべての事情を旧に復し軌道に乗せたのでした。

 その間、前述の某氏の友人が、「今日から自分が校長だ」と生徒の前であいさつしたかと思うと、その後は出校せず、続いて、他の者が校長顔して3ヵ月にわたって出校していたこともありました。また教職員の出入りもひんぱんで、朝、職員室に入ると、見知らぬ顔が、昨日まで座っていた職員の椅子に座っているなど、第1学期間にわたり混乱が続いたのでした。したがって、生徒も学業を十分に習得できず、学校に対する親しみがうすくなったのは当然のことでした。

 この混乱の一時期は世の不評を買い、その後、本校に及ぼした不利ははかりしれないものがありました。

 昭和3年といえば、国民待望の普選第1回衆議院議員選挙が行われ(2月)、死刑・無期刑を追加した「治安維持法」が改正公布された(6月)年であり、一方、教育施策をみると、人格の陶冶、国体観念の要請に加え、さらに文部大臣の監督権を強化した「専門学校令」が改正公布され(1月)、次いで陸軍省が、学校教練を成績に加える「学校教練及青年訓練修了者検定規程」を公布し(2月)、また文部省が、学生・生徒の思想傾向の匡正、国民精神の作興を訓令したり(4月)、第1回思想問題講習会を開催したり(8月)、学生課を新設(10月、翌年7月部に昇格)しています。翌4月に入ると、以上の動きと並行して、文部省は、女子教育調査委員会を設置して女子中等教育の刷新をはかり(6月)、また社会教育局を設置し(7月)、さらに社会強化網などを通じて、国体観念の明徴、国民精神の作興、国力培養を期したのでした。その集約的なあらわれが、同年9月、各学校に出した教化総動員に関する訓令です。このように、この両年は、学生・生徒の思想対策がたてられた時期でした。

校勢の不振続く

 昭和4年8月22日、高倉半次郎は、あらためて校長として第2学期の始業式にのぞみました。同年10月28日、生徒約40名は本宮山へ遠足し、12月24・25両日は恒例の展覧会およびバザーを開催、越えて5年3月2・3両日はお雛祭りと学芸会を開催し、また3月2日には近郊の小学校によびかけ初めて小学校女子卓球大会を主催しました(参加5校)。

 この卓球大会は、東三河地方において卓球熱が高まってきたことから、本校のPRを意図した試みでもありました。というのは、入学出願者が減少してきたからです。昭和5年度の入学者は25名(実科5、本科8、速成科8、研究科4)、翌6年度は11名(実科3、専科5、研究科3)と激減しています。以後、小学校女子卓球大会も恒例となりました。

 また、これまで設立者として下山嘉一郎、小久保象之助が名をつらねていましたが、事実上はなんらの関与もありませんでしたので、5年4月22日に設立者減員の認可を申請して、同年7月4日にその認可を受け、本校は名実ともに高倉半次郎個人の経営となりました。

 しかし、入学出願者の減少だけでなく、『学校沿革誌』の昭和6年度の項をみると、「・・・・・・右入学者ノ中ニモ入学後一二日ニシテ不出者アリ間モナク退学セル者アリ稍安定セシ頃は在校生実ニ二十六名トイフ現象ヲ呈セリ」と記録されており、校勢の不振状態が続きました。高倉校長も『和洋』(10周年記念号)のなかで、次のように述べています。

 将来のことは知らず、過去十年間を回顧するに、この昭和六年度が校運の不振其の極に達した年であつた。秋に本宮山麓へ遠足に行つた時など職員三に生徒十八といふ一家と称しても珍しからぬ一団、今は只一笑話の種とは言ひ条、其の時の生徒のいかに威勢の無く我等亦いかに淋しかりしか。
 何事も混乱時代の不評の世間に薄らぐを待つ外はないと只管に忍苦の年を送つて来たのであつたが、この三年間の雌伏と日夜に努めた内容の築成とは、もう少しは働きかけてもと、奮然生徒の募集に赴いたのが実に昭和七年度である。

 校勢の不振が続いた昭和5年から翌6年にかけて、文部省は、さらに国民精神の作興、国体概念の明徴の徹底を期したのでした。5年には、初めて私立大学総長・学長協議会を開催して学生思想問題を協議し(12月)、家庭教育振興を訓令し(同月)、6年には、法制・経済を公民科に、柔・剣道を必修とする「中学校令施行規則」を改正しています(1月)。

 しだいに悪気流がただよいはじめ、6年9月18日には、奉天校外柳条溝の満鉄線路爆破事件から満州事変がおこり、国内は準戦時体制に向かって進んでいきました。教育界も、事変美談として宣伝された肉弾三勇士などが教材となり戦時色をおびてきました。そして、軍国熱の高まりとともに、「非常時」という言葉があらゆるものに優先するようになってきました。

みどりこき 三遠の山
ほのぼのと 朝陽にほへば
もやとけて 柳生河畔を
うきいでし うきいでし
わが 和洋学園

 高倉校長作詞・作曲の校歌が発表されたのは昭和6年です。

よみがえる学舎(まなびや)

 長い沈淪のふちから泉が湧き出てきました。

 昭和7年を迎えると、1月11日から3日間、本校において、修養団理事竹内浦次氏を講師に初の婦人講習会を開催しました。参加会員60名中、本校からは19名の生徒が参加しました。

 続いて同月、教職員・生徒は、結束して生徒募集を開始しました。また、外部の各方面から後援者を委嘱して募集網の完ぺきを期するとともに、家業などの事情により期間を定めて入学することができない者のために、学歴・年齢を問わず、入学の時期や在学の期間も定めない随時科を特設しました。その結果、7年度の入学者は46名(実科7、本科16、専科12、研究科1、随時科10)と増加しました。

 同年4月14日には、定期基本縫競技(運針競技)が創始されました。これは、毎月1回、高倉校長みずから基本縫競技を実施し、もっぱら生徒の基礎的技術の錬成をはかることが主眼です。また同年7月1日からは、毎朝始業前に校庭において朝会を実施することになりました。鉄道省から、本校教職員・生徒に対し汽車・汽船割引の特典を与えられたのは同年30日でした。さらに、翌8月4日から6日間、習字専練会(参加会員30名)をそれぞれ開催しました。習字専練会は、それより前、昭和5年7月22日から6日間、26名の参加会員を得て習字講習会として開催したのが最初です。この両専練会も、以後、本校の年中行事となりました。ちなみに、豊橋地方の児童間に書道熱が勃興してきたのは昭和8年ごろからであり、各所に児童を対象とする書道塾が開設されました。

 くしくも昭和7年9月、豊橋市は隣接町村――宝飯郡下地町、渥美郡牟呂吉田村・高師村、八名郡下川村・石巻村大字多米などを合併し「大豊橋市」実現のための衣がえをしています。これにより、これまで高師村に属していた本校は豊橋市鍵田町106番地と地番変更になりました。翌10月1日には、その合併祝賀式典が豊橋練兵場において盛大に催されました。また、翌2日には祝賀運動会も行われ、この運動会に参加した本校生徒45名は球戯「大豊橋」を演技し、かっさいを浴びました。

 同年11月12・13両日開催した恒例の展覧会・バザーは、両日を通じ来観者4,500人に及ぶという盛況ぶりでした。また、11月13日には第4会小学校女子卓球大会を主催し(参加9校)、これまた盛会でした。

 昭和8年度の入学者は53名(実科14、本科6、専科22、随時科11)となり、一陽来復、校内は活気に満ちあふれ、伸びやかな人間の輪がつくられ、ここに学舎まなびやはよみがえりました。

枯れ木に花が・・・・・・

 昭和8年には、小学校の国定教科書が改訂され、「わが国」が「大日本帝国」に、「国民」が「臣民」と名称が改められました。「サクラ読本」といわれた色刷りの『小学国語読本』が使用されたのはこの年4月からです。同年7月には、陸軍・海軍・外務・文部省共同編さんによる『非常時と国民の覚悟』が学校・社会教化団体に配布されました。

 ところで、この昭和8年の春、作法室南の八重桜の枯れた幹枝を切って、校庭内の菜園のきゅうりの添え木にしましたが、復興なった本校をことほぐかのように、6月下旬、一本の小枝に十数輪の花がみごとに咲いたのでした。「枯れ木に桜花満開というのは奇端である」と、さっそく『新愛知新聞』紙上に報道されました。このため、遠近から、この花を観賞する訪問者が引きも切らずというありさまで、6月30日には「無慮百ニ及」んだと記録されています。

 その後、この十数輪の花が散ったあとに、その下部から発芽して緑したたる若葉が8、9葉生え育ちました。が、やがて、7月の暑熱にあってついにしぼんでしまいました。そこで、同年秋、同所に桜の小木を移植して長く記念としました。

創立10周年を迎える

 昭和9年1月から、和服着用者の制服を制定実施しました(久留米餅・市松模様)。

健実に有能に、楽しく明るく
学科と和洋裁縫の能率的学習
教員有資格、個人指導重視
裁縫材料貸与、工賃授与
学費少額総て実費主義学級増加目下増築中

 これは、昭和9年度の生徒募集の広告文です。この広告文に明示された「目下増築中」の校舎(従来の校舎の東側に15坪1室)については、同年2月20日、教職員・生徒が、「増築記念」と染め抜いた手ぬぐいをはち巻きして参加し、校舎増築樹柱式を行っています。次いで翌3月4日、全校生徒およびその弟妹と9年度入学出願者約60名を招待し、午前は生徒のインドアベースボール試合を行い、赤飯で中食のあと、午後は大投げ餅に打ち興じるなど、増築校舎棟上げ祝いを盛大に催しました。生徒間に運動熱が高まってきたのはこの年からです。

 9年度の入学者は89名(実科38、本科13、専科31、研究科7)となり、創立以来の最多数にのぼりました。このため、新築の1室を職員室にし、実科1・2年、本科、専科の4学級と、別に随時科は作法室を使用することにしましたが、生徒が増えたことから各教室とも、教室らしい充実した感がありました。

 同年6月23日には、生徒と家庭を対象に、謄写刷りの『趣味と修養』を発刊し、以後、週1回ないし2回発行することにしました。

 同年10月3日、創立10周年記念日を迎えました。この日、教職員・生徒合同で、玄関前に記念樹「赤松」を植え、茶話会を催しました。祝賀式は、越えて11月2日午前10時半から行われました。かねて100余人の来賓に案内状を送付し、そのうち70余人が出席する旨回答を寄せられていましたが、当日は、前日来の雨に加え、豊橋市内小学校長の会合が重なり、来賓の参列者は22名となりました。しかし、下山前校長が来賓の一人として参列されたことは、創立10周年を祝福するにふさわしい意義深いものがありました。

 学校長式辞に続いて、来賓の豊橋市長(学務課長代読)、下山前校長ほか3氏の祝辞、祝電披露、生徒総代祝辞など、おごそかなうちにも華やいだふんいきの祝賀式典を終え、式後は前庭で園遊会の予定でしたが、天候不順のため食堂において祝賀宴を催しました。そして、来賓には生徒の心をこめた作品集『和洋』を記念品として贈呈しました。引き続き翌3・4両日には創立10周年記念展覧会・バザーを開催しました。2日間の来観者は3,000に及び、また、11月4日に主催した第6回小学校女子卓球大会も参加8校を得て盛会でした。

 過ぎし日――あの混乱と沈滞の一時期に際会した校長高倉半次郎は、以来、教職員を督励しつつ献身的活動を続け、みごと、ここに復興をなしとげ、10周年を迎えたのです。まさしく、文字どおり苦節10年でした。こうして、今日の豊橋女子高等学校となる基盤を10年にして築き上げたのです。その胸は、今昔の感に耐えないものがあったでしょう。

 高倉校長は、「10周年の感」として、「・・・・・・遮莫さもあらばあれ何事に依らずただ順調といふことに依つて終始しない場合、却てそこに緊張あり張合あり希望あり、されば今に於てはそれらのことはさして不足とは考へざるなり。もとより、私生来説言令色は能はぬところ、加ふるに当地方盟友知己に乏しく、而も出でゝ求めてよろこびを厚うするの巧を学び得ず、ここに於てか退いてその内容を整備し充実し、教育実績の高調を図り、専ら実証に依て認めらるゝの日を待つべしと期したり」(『和洋』10周年記念号)と述べ、また、「生徒の学習への真摯、態度の快活、日に日に伸びゆく身と心」(『同上書』)をながめやりながら、次のように謳いあげています。

少女子等は皆わがまなびやのひねもすを
うれしさの外ほかなきに似て
少女子の顔の輝きまさりゆくがうれし
わがまなびやに来しその日より
運動場の拡張、校舎の増築

 年を追って入学出願者は増加していき、昭和10年度の生徒募集開始直前、すでに9年12月下旬から実科への出願が2、3あり、1月に入ると、にわかに出願者が続出し、1月中に45名、2月中には66名に及び、未曾有の盛況を示しました。

 学校にとってはうれしい悲鳴であり、当然、施設拡充の必要性が生まれてきました。そこで10年2月下旬から旧運動場の東側約160坪を埋め立て、運動場拡張工事に着手しました。

 翌3月3日、それまでの入学出願者111名に案内状を送付し、そのうちの出席者八十余名と在校生を合わせ盛大に運動場拡張祝いを催しました。当日は、自由交歓、在校生のインドアベースボール試合、拡張運動場の土踏み、蜜柑投げ(景品付き)・・・・・・のプログラムで、時のたつのを忘れる終日でした。さらに同月20日には、昇降口の北側へ一教室増築し、新入生の受け入れ体制を整備・充実させました。

 10年度の入学者は111名(実科57、本科21、専科26、研究科3、随時科4)と百台の大台に乗りました。ほかに、実科卒業者18名中高等実科に進学した者10名です。

開校以来初の運動会開催

 愛知和洋裁縫女学校の設立趣旨書の冒頭には、「世運の進歩は婦人の覚醒を促しまして、その地位の向上を求め家庭の教育も文化生活もすべて真に自覚ある婦人によつて達せらるべきものとして、子女の教育如何は将来の家庭社会の改善更新の上に重大なる意義を有することを痛感し、・・・・・・」と述べられ、このため「普通学の上進と婦徳の修養を重じ併て体育の向上を図り」時運にともなう有為の婦女養成を目的として開校されたわけですが、以来、和裁・洋裁の実力養成はもとよりのこと、修養としての国語、算術、歴史、地理、理科などの学習を重視し、体育にも力を入れてきました。

 高倉校長時代に移ってからは、「徳育と体育による身体と精神の健全」をとくに重視して、「純良」「健全」「有為」を教育の指標に掲げ、体育にはいちだんと力が注がれました。

・・・・・・私達の学校で校長先生が先頭に立つて、毎朝々会の体操をやつたり、昼の放課にはインドアだの砲弾投げが盛に行はれたり、運動デーの設けがあつたり、春秋の遠足で生徒を楽しませたりベースボールするのも、本校の方針たる健康第一を目指すものであります。

――実科第2回卒業岡部つぎ子『和洋』(10周年記念号)より――

 生徒間には、インドアベースボールに人気が集中していたようです。すでに昭和8年6月8日には、神明通りを境にして全生徒を東西にわけ、それぞれ選手を出してインドア試合をしています。翌9年になると、生徒間の運動熱は高まる一方でした。そこで10年11月15日、開校以来初めての校内大運動会を開催しました(以後恒例となる)。

 全生徒のラジオ体操からはじまり、スプーンレース、徒歩競走、親子競走、デッドボール、インドアボール遠投、盲押し競走、寄物競走、インドアボール投げ競走、バレーボール打ち、バレーボール投げ競走、インドアボールねらい投げ、砲弾遊び、変装行列、変装スプーンレース、スプーンリレーレース、全生徒による整容運動など、練習を要せず、準備も簡単であり、しかも興味の横溢した本校独特の運動会となり、全校をあげて歓喜のうずに巻き込まれた一日をすごし、茶話会を最後に参会しました。

 このプログラムの内容をみると、当時の体育指導のあり方をうかがうことができてたいへん興味深いが、それ以上に、こうした大会が実施されたということ自体に、本校女子教育の内容発展を知ることができます。

「行規百箇条」を制定

 ヨーロッパに目を転じると、昭和10年3月、ドイツがベルサイユ条約軍備制限条項を廃棄して再軍備を宣言し、同年10月にはイタリアがエチオピアに侵入を開始するという容易ならぬ事態に直面していました。国内では、翌11年2月26日、いわゆる二・二六事件がおこっています。その後は軍部が内閣の死命を制するようになり、言論・報道・集会の自由が極端に制限され、新聞の記事はほとんど軍提供の指導記事で占められ、社会面は愛国美談ばかりとなりました。同年8月には大陸・南方への進出と軍備充実を定めた「国策の規準」が決定されました。すなわち後年の太平洋戦争にいたる構想が国策とされたのです。この構想実現のために、政治も経済も国民生活も、すべて軍国主義一色に塗りつぶされました。そして同年11月、日独防共協定が締結されたことにより、ヨーロッパとアジアを巻き込む全面戦争の道へ傾斜していく危機をはらむようになりました。

 戦争へひた走りする情勢に直面して、学制改革論議も高まってきました。昭和10・11両年の教育施策をみると、まず、10年4月には実業補習学校と青年訓練所を統合して青年学校とする「青年学校令」「青年学校教員養成所令」が公布されて、国家主義教化の貫徹を期すことになりました。次いで、6月には文部省に実業教育振興委員会が設置され(昭和13年廃止)、さらに、11月には「国体観念、日本精神を根本として学問、教育刷新の方途を議」する目的で教学刷新評議会が設置されました(12年廃止)。翌11年7月には平生釟三郎文相の主導で義務教育八年制実施計画要綱が決定されました(12年計画解消)。また、この年に設置された内閣調査局は、教育改革のための資料や意見を各省を通じて収集していますが、これが根回しされて16年の「国民学校令」公布となるのです。

 この両年の『学校日誌』をみると次のように記録されており、当時の国情がしのばれます。

昭和10年
 10月23日 招魂祭参拝
 11月18日 田村部隊満州より帰還につき全校駅頭に歓迎
 同月21日 御親閲記念式参列
 同月22日 山本上等兵慰霊祭羽根井小学校に行はれ実三、本一三列
 12月 4日 義宮正仁親王殿下御誕生奉祝旗行列に参加
 同月14日 午前五時半有志渡満兵歓送
昭和11年
  1月 1日 満州より帰還部隊歓迎
  2月11日 式後建国祭へ参列
  5月 6日 元工兵隊長後藤大佐慰霊祭に実四、本二参列
 同月25日 渡満中戦病死者慰霊祭練兵場に施行され全校参列

 開校以来、昭和11年3月までに、本科96、達成科157、研究科43、高等実科10、実科46、合計352名の卒業式を送り出しました。また11年度入学者は101名(実科45、本科16、専科34、研究科3、随時科3)でした。ほかに実科卒業生28名中、高等実科へ進学した者は11名おりました。

 満州事変を出発点として、戦争体制への傾斜のなかで、教育施策が大きな転換を迫られていたこの時期、高倉校長の方針に従った学校運営は、着々生徒間に浸透していきました。が、さらに揺るぎない教育方針を定めようと、学校諸制度全般にわたって検討が加えられました。そして11年12月22日、本校教育の趣旨を明確にし、教育綱領ともいうべき「行規百箇条」を制定・発表しました。

 本校教育の趣旨は、「その体系は合理的に組織的に而して能率的に」「その重点は将来の実生活を稽ふる実質陶冶に」「その方法は各個の発展を重じ個別取扱本位に」であり、「校風の三和」として「和親、和協、和楽」の3点、さらに、前に述べた教育の指標――「純良」「健全」「有為」、以上を校是としました。

 一般、課業、清潔整頓、途中、家庭の5項目からなる「行規百箇条」は、建学の本旨にもとづいて具体的に示した生徒日常の指針です。「36 学習は自発的にする」「37 自己研究を重んずる」など、あくまでも生徒の自主性を強調し、それを基本道徳と結びつけたものでした。

行規百箇条

(昭和11年12月22日、高倉半次郎校長、生徒日常の指針として制定)

一般

  1. 校章をつける
  2. 校服は規定を違えぬ
  3. 襟カバーを忘れぬ
  4. スカートのヒダあわせる
  5. 髪を乱さぬ
  6. 髪に余分のものを附けぬ
  7. 履物をずらぬ
  8. 履物の脱ぎ方に注意する
  9. 欠席は届出る
  10. 遅刻せぬ
  11. 遅刻の際は躊躇なく入る
  12. 定刻以後学校に居残らぬ
  13. 登校退校の際先生学友に挨拶する
  14. 金銭出納を記帳する
  15. 金銭を多分に携帯せぬ
  16. なるべく金銭物品の貸借せぬ
  17. 平日腕時計を持たぬ
  18. 余分のものを学校に持参せぬ
  19. 口を閉じる
  20. ふくれぬ
  21. 蔭口いわぬ
  22. 正しい言葉をつかう
  23. 戸障子の開閉に注意する
  24. 室内や廊下を走らぬ
  25. らくがきせぬ
  26. 党派をつくらぬ
  27. 学年や学級の別による差別観を持たぬ
  28. 全校仲よくする
  29. 他人の耻ずかしい場合を注視せぬ
  30. 冷笑蔑視等せぬ
  31. 応対は笑顔を以てする
  32. 学校の器具類の損失は直に届出る
  33. 休日には学校の器具は許しを得て使う
  34. 独断にて余分のものを買わぬ
  35. 無意味の贈答をしない
  36. 学習は自発的にする
  37. 自己研究を重んずる

課業

  1. 質疑は遅擬せぬ
  2. 正課の事項は偏忌せぬ
  3. 提出物は後れぬ
  4. 裁縫材料については絶えず配意する
  5. 裁縫材料に困りし際は遠慮なく申出る
  6. 細目(裁縫等)は年度内に完了する
  7. 教科書学用品を忘れぬ
  8. 個別実習の際は静粛になす
  9. 自由運動時間は必ず運動する
  10. 体操及運動時間は運動服を着る
  11. 時間中みだりに教室外に出ぬ
  12. 読書上の悪癖を警しむる
  13. 学業に関し余り競争心をもたぬ

清潔整頓

  1. 共同作業(掃除等)は率先してする
  2. 自転車は正しく置く
  3. 便所をよごさぬ
  4. 便所の戸をよく閉じる
  5. 水道栓はよく閉じる
  6. 机内はよく整頓する
  7. 襟カバーは時々洗う
  8. 紙、糸、布の屑を落さぬ
  9. 紙、糸、布の屑を見たら片付ける
  10. 針を落とさぬ
  11. 落針を見たら片付ける
  12. 遺失物拾物は直に届出る
  13. 運動具はすべて所定の所におく
  14. すべてのものの後始末をよくする
  15. 乱雑、不整頓を見たら直に手を下す

途中

  1. 左側通行
  2. なるべく徒歩
  3. さっさと歩く
  4. 最大限まで学友と同行する
  5. 正しい道路を通る
  6. 道草くわぬ
  7. 無用不正の寄道せぬ
  8. 途すがら読書せぬ
  9. 途中喧噪狂戯せぬ
  10. 旧師知己長者に挨拶する
  11. 学友相互挨拶する
  12. 不知の人に相手にならぬ
  13. 劇場常設館に入らぬ
  14. 飲食店や之に類する店に入らぬ
  15. 単独にて夜間外出せぬ
  16. 学友と夜間交友せぬ
  17. 単独又は学友との逍遙行楽等せぬ
  18. 常時以外は先生又は親に相談する
  19. 未知の人からの手紙は自分で開封せぬ
  20. 学友の悪い噂は言触さぬ

家庭

  1. 一家の内の自己の位置を認識する
  2. 神仏の礼拝を怠らぬ
  3. 早起早寝
  4. 早朝の保健動作をなす
  5. よく家事を手伝う
  6. 仕事は時機を逸せずなす
  7. 返事は早くはっきりする
  8. 口答せぬ
  9. ぐちをこぼさぬ
  10. 学科の復習をする
  11. 課業(裁縫等の進行)を怠らぬ
  12. 宿題は必ずする
  13. 行先をはっきり言って出る
  14. 家を出る時帰宅の時挨拶する
  15. 近所の人にあいそよく

 また、この11年6月11日には、割烹室の渡り廊下ぎわに、裁縫・手芸諸材料、学用品などの供給、会計事務の一切を取り扱う用度部が新設されました。さらに、同年10月13日には運動服を制定しています。翌11月1日には、八町練兵場において豊橋市制30周年記念祝賀市民大運動会が催され、本校生徒も参加して女子中等学校マスゲームに出場しました(昭和9年以降毎年参加)。

戦いは惜しみなく奪う――愛知高等実修女学校の設置――

教育の戦時体制化

 時代は激しく動き、うずを巻いて突き進んでいきました。

 昭和12年7月7日の日華事変勃発に続き、16年12月8日の太平洋戦争開始以後敗戦にいたるこの時機は、いうまでもなく教育の荒廃・破壊を招来した時代です。

 中等学校以上の学生・生徒に対する集団勤労動員は、13年の文部省訓令「集団的勤労作業運動実施ニ関スル件」にはじまっていますが、情勢の悪化とともに、労力狩り出しはしだいに恒久化し、強化されていきました。

 16年になると、文部省は、各学校に全校組織の学校報国隊(団)の編成を訓令し、18年には、中学校・高等女学校・実業学校の修業年限が1年短縮されました。戦局悪化の最後の段階にきた19年になると、国民学校高等科・中学校低学年生の動員、深夜業が強化され、学生・生徒の双肩には、直接、軍事能力の負担が課せられたのです。

 戦争末期の様相は、このように甚大な影響を教育に及ぼしました。さらに20年に入ると、国民学校初等科以外の授業が4月から1年間停止され、全学校には学徒隊が結成され、校舎はさながら工場化し兵営化しました。そして、ついに敗戦という悲惨な現実に直面したのです。

 時勢の急転からやむをえぬとはいうものの、このような戦時体制下に合致する一連の教育全般にわたる緊縮整理は、明治以来の伝統ある教育を破壊する結果を生みました。

 では、引き続き、戦時下における本校のあゆみを、時代を追って綴ってみましょう。

勤労動員はじまる

 昭和12年7月、日華事変が勃発すると、政府は「八紘一宇」「挙国一致」「堅忍持久」などのスローガンを掲げ、翌8月からは国民精神総動員運動を開始しました。名古屋の第3師団に動員令が下ったのは同月14日、同年11月にはイタリアが日独防共協定に参加しました。

 この年には、全国各地で千人針・慰問袋が盛んにつくられ、また、出征のぼり・小旗の需要が増え、内側の黒い防空電球が発売され、電灯覆いも普及しはじめました。映画の巻頭に「挙国一致」「銃後を護れ」などの一枚タイトルが挿入されるようになったのもこのころです。

 翌13年、中国大陸の戦線はさらに広がり、同年4月、国内戦時体制強化のため、戦時統制法規の集大成ともいえる「国家総動員法」が制定(5月施行)されてからは、国民の生活と行動は、戦争協力を前提とすることによってのみ許されるようになり、軍備拡充と軍需生産に重点がおかれました。陶製なべ、竹製スプーン、鮫皮ぐつ、鮭皮ハンドバッグ、木製バケツなどの代用品が出回りはじめたのはこの年からです。

 大揺れに揺れた国際情勢は、当然、国内情勢をめまぐるしく変転させました。教育もまたその例にもれるものではなく、12年5月には、個人主義的国家観を否定し、君臣一体の家族国家観を強調した文部省編さん『国体の本義』が全国の学校・社会教化団体などに配布され、同年9月には海外留学・派遣の抑制が閣議決定されました(昭和13年、文科関係中止決定)。

 13年に入ると6月、文部省訓令――「集団的勤労作業運動実施ニ関スル件」が出され、これにより、中等学校以上の学生・生徒の集団勤労動員がはじまりました。また同年8月には「学校卒業者使用制限令」が公布され、工業・技術系学生の雇用が統制されたのです。

 愛知県下に目を注ぐと、12年3月14日から5月31日までの78日間、名古屋港開港30周年を記念して名古屋汎太平洋平和博覧会が開催されています。この博覧会が中部の産業発展に大いに貢献したことはいうまでもありませんが、特筆すべきことは、この博覧会を記念して、4月20日・21両日、名古屋市公会堂を会場に、550余人が参集して全国初等教育大会を開催したこと、さらに会期中の5月3~5日に、同じく名古屋市公会堂において全国代表約700人が参集して第14回全国聯合小学校教員会総会を開催し、「一、吾人は義務教育年限延長の即時断行を期す、二、吾人は速かに小学校教員俸給全額国庫支弁の実現を期す」の2項目を決議したことです。

年々盛んになる全国運針競技

 さて、昭和12年を迎えると、2月8日の針供養に続いて、同月15日からは隔週1回の予定で、長坂理一郎師により仕舞稽古が開始され、生徒有志11名が参加しました。翌3月5日の「母の日」学芸会では、謡曲「羽衣」、仕舞「猩々」などが加わって異彩を添えました。

 12年度の入学者は100名(実科51、本科15、専科24、研究科5、随時科5)でした。ほかに、実科卒業生中、高等実科へ進学した者19名、専科から研究科などに転入した者が12名おりました。

 四時間目のベルがけたたましく鳴り出した。急いで席について、糸が短か過ぎはしないか、玉が造つてあるか、念入りに調べて用意してゐると、校長がいらつしやつて、
「さうあはてなくても。」
といひすてたまゝ二年生の方へお行きになつた。運針用布を手に持つと胸がどきどきする。こんな時には気を落付けなくてはいけないと思ひ、眼をつぶり下腹に力を入れて見たけれど、矢張り真剣にふるへる。長鳴りの最後のベルがチリンと鳴るや否や、皆一斉に指先を動かして縫始めた。もうすつかり夢中である。せきをする人もない。(中略)三本目の中頃を縫つてゐる時五分のベルが鳴った。皆の手先は一層の馬力をかけられる。余り静かなので遠くの教室で校長先生が何か言つていらつしやる声がよく聞える。やがて校長先生が見えて、アト二分とおつしゃつてお通りになつた。・・・

――実科第4回卒業 広瀬登美子(旧姓河西)『和洋』より――

 単調な所作であり、しかも10分、15分のわずか時間であるが、その間、全校内はしんと静まりかえり、厳粛な空気がただよう。そして、終了するや否や、ふたたび校内は活気ある状態にもどり、日常の息吹を盛り返す――昭和7年から実施しているこの全校運針競技は、当初、毎月のときもありましたが、その後、多少方法を変え、11年度以降は年4回、定期的に実施しています。12年度になると、それは、ますます熱がこもるようになりました。

 12年7月7日の日華事変勃発にともない、翌8月25日、愛知県知事田中広太郎氏は、県下の学校長を招請して「・・・・・・各位は愈々自奮自励、部下職員と一致協力して其の職務に精励するは勿論、生徒児童並に父兄青年に対し、機会ある毎に時局に対する正しき認識と精神の鼓舞振作に努められたい」と時局に対する訓示をしました。さらに同年9月25日、田中県知事から「玆ニ国民精神総動員ノ運動ヲ県下ニ実施セントスルニ際シ県民諸氏ニ告グ・・・・・・」の諭告が発せられて、国民精神総動員実践事項が示されました。このため本校においても、実践事項に示された「社会風潮の一新」、「銃後の後援の強化持続」、「非常時経済政策への協力」、「資源の愛護」などを教育のなかにおりこみながら、学校運営をはかることになりました。

 同年11月13・14両日には、資源愛護にもとづき恒例のバザーを中止して、成績品展覧会のみを開催しました。したがって、生徒の家族のみに案内状を発送し、来賓を招待していません。なお、11月14日には同窓会総会を開催しています(出席52名)。翌12月13日の南京陥落祝賀式および旗行列に本校も参加しました。一方、12年からは戦死者の慰霊祭などがたびたび行われ、その都度、一学級が参列しています。13年1月13日には戦死者遺骨200余柱の出迎えをしました。また同月29日には、全校職員・生徒が一品ずつ持ち寄って21個の慰問袋をつくり、生徒の近親の出征兵士に発送しています。いずれも、国民精神総動員運動の一環として行われたものです。

増築校舎の竣工

 昭和13年2月12日、市田刺子工場からの依頼により海軍剣道衣の刺縫を全校生徒で着工し、同年末日までに500枚完了して納付しました。そして、その工賃の支給を受けたのは翌3月7日であり、生徒たちは、その一部を一斉に報告貯金しました。以来、全校一斉の報告貯金がはじめられました。

 13年度入学者は、101名(実科62、本科19、専科15、研究科2、随時科3)でした。ほかに、実科卒業生中、高等実科へ進学した者15名、専科卒業生中、研究科などに進学した者が2名おりました。それに先だち、13年度の入学者も多数に及ぶことから校舎の増築が必要となり、職員室の北側へ2教室(55坪)増築の計画をたて、同年3月5日、敷地の中央に鍬入れし起工式を行いました。基礎工事に着手したのは同年5月13日、上棟式は同月21日に催されました。この増築校舎が竣工したのは同年7月9日です。当日は内祝い式を催し、また、余興学芸や卓球試合などが行われました。

 学級別インドアリーグ戦を毎週火・金の放課後行うことにし、同年6月7日から試合が開始されるなど、「徳育と体育による身体と精神の健全」――本校のこの教育指標はさらに徹底しました。このリーグ戦は7月14日に終了し、優勝した実4・本2組に対し、精文館寄贈の優勝旗を授与しました。さらに同年12月20日には、学期末インドア学級対抗戦も行われています。この対抗戦は、本校校庭だけでなく、福岡小学校の校庭も借用するなど大々的なものでした。

 同年7月22日から3日間、生徒の勤労作業として、上級生は3組にわかれ、小松原街道から用水路に沿い校門に至る道路の修理に汗を流しました。万事に質素倹約を旨とするという国民精神総動員運動の実践事項のひとつとして、春から秋にかけて学校内では靴下を用いないことにしたのはこの13年度からです。

 同年11月12・13両日には恒例の展覧会・バザーを開催しました。前年度は日華事変勃発後まもないことであり、極力自粛すべきということから展覧会だけにとどめましたが、この13年には、時局下にふさわしくという念を中心としたならばいっそう有意義になるという結論をえて、同時にバザーも催すことにしたわけです。したがって、成績品はとくに材料を質素に、また堅実を旨とし、バザー売品も国策にそう実用品をおもに出品しました。そして、第2日目には同窓会と、これまた恒例の小学校女子卓球大会を主催しました(参加8校)。

 岡崎、浜野両講師による栄養料理講習会を開催したのは翌12月7日です。この講習会では全上級生が講演し、実4・本2組が受講しました。

世相を投影する教育

 昭和14年に入ると、9月、ドイツ陸・空軍がポーランドに進撃を開始し、ついに第2次世界大戦の幕が切って落とされました。

 この年の世相に目をとめると、商工省がポスト・ベンチ・広告塔など鉄製不急品の回収に乗り出し(2月)、国民精神総動員委員会が遊興営業の時間短縮、ネオン全廃、中元・歳暮の贈答廃止、学生の長髪禁止(坊主頭)、パーマネント廃止など生活刷新案を決定し(6月)、長期戦による労働力・戦闘要員の不足を補うために「国民徴用令」の公布(7月)、「家庭防空隣保組織要綱」の発表(8月)など、国民生活をいちじるしく規制する方策が次々に打ち出されています。「興亜奉公日」が制定(毎月1日実施)されたのは8月であり、9月1日、初の奉公日には、自粛、奮起、奉公の誓いをたて、早起き励行、報恩感謝、大和協力、勤労奉公、時間厳守、節約貯蓄、心身鍛練という国民生活要綱の趣旨を実践することが要請されました。翌10月には15歳から25歳までの男子に体力章検定が義務化され(走・跳・投・運搬・懸垂の5種を受け、初・中・上級を判定)、また、脚本の事前検閲、製作数の制限、外国映画の上映制限などを内容とした「映画法」が公布されました。「軍機保護法施行規則」の改正によりビルや高台からの俯瞰撮影が禁止となり(12月)、木炭が配給統制となり(同月)、門松が全廃となった(同月)のもすべてこの年です。豊川町(現豊川市)の本野が原に豊川海軍廠が建設されたのは同年12月でした。

 戦争体制一本にしぼられてきた国内の動きは、そのまま教育に投影しました。

 14年3月、大学における軍事教練が必修となり、翌4月には青年学校が義務制となり、同年5月22日には「青少年学徒ニ賜ハリタル勅語」が下賜されました。そして同日、全国1800校の学生・生徒代表3万2,500人は、執銃・帯剣・巻きゲートルで二重橋前に参集して天皇陛下のご親閲を受け、東京市内を大行進しました。なお、このご親閲式に、現校長高倉良爾(当時愛知県第一師範学校5年生)が学校代表として参列しています。さらに、同月には小学校5・6年と高等科男児に武道(柔・剣道)が加えられました。荒木文相が学徒隊編成を発表したのは同年6月であり、また文部省が、学生の運動競技を休日・土曜午後以外禁止する旨告示したのは8月です。

習字の全国一斉競書

 昭和14年1月30日、全校教職員・生徒が一品以上持ち寄り、ほかに学校からも品物を加えて慰問袋をつくり、教職員・生徒の近親の出征兵士45人の小包便で発送しました。

 運針競技は、回を重ねるごとに可憐な生徒たちの胸をおどらせているのですが、ことに同年3月16日に実施された全校一斉運針競技は、全校一様の方法と標準に的をしぼったので、その熱意は格別なものがありました。

 14年度入学者は120名(実科74、本科27、専科14、研究科5)でした。ほかに、実科卒業生中、高等実科へ進学した者が26名おりました。この入学者数は創立以来最多数です。そして、16年度にはやや減少しましたが、15、17、18年度とも入学者数は増加しています。

 この現象は、戦時的経済好況が支配して国民所得も高まりましたが、一方で労働力の不足もあらわれて、女性の活躍の門戸が広く開かれ、本校設立の趣旨である「将来職業婦人としても独立し得べき実技の練成」の必要性が急速に望まれたことにも原因していると思います。いずれにしても、本校が女子教育の場として充実してきたことを物語るものといえるでしょう。

 しだいに勤労作業に時間がさかれるようになりました。14年7月21日からは夏期勤労作業に従事しています。すなわち、海軍剣道衣の刺縫および同黒袴の仕立てを市田刺子工場から依頼されたことから、上級生全員が出校して同月27日までこの作業に従事し、残部は各自持ち帰り月末までに仕上げました。また、同年9月1日には、特別作業として教職員および上級生全員が出校し、小松原街道から校内に至る通学路の修理にあたっています。

 初めて習字の全校一斉競書を実施したのは同月26日です。実科1・2年と、上級とにわけ、下級の実科1・2年は「興亜長期建設」の行書、上級は和歌「水のおもにてる月なみ」を連綿体で、30分練習し、15分間に浄書するちおうものです。そして、下級から31校、上級から22校を入選としこれを講堂に展観、職員・生徒の投票を集計して、実科2年より5名、実科1年より2名、実科3・実科4・本科2年より1名ずつの優秀者に賞状を授与しました。本校は、現在、書道では東海地方でもトップレベルにあり、「書道王国」といわれていますが、そのよってきたるところは、この当時からのこうした独特の指導法に根ざしているともいえましょう。

創立15周年を迎える

 昭和14年10月3日、創立15周年を迎えました。15年を回顧するとき、思い出の糸は手繰っても尽きぬものがあります。

 昭和8年の春、八重桜の枯れ枝を校庭の菜園のきゅうりの添え木にしたところ、6月下旬、その小枝に十数輪の花が咲き、「奇端だ!吉兆だ!」といわれましたが、不思議にも、その後、本校は目に見えて発展の一途をたどりました。翌9年には職員室を建て、10年には昇降口の北側に1教室増築し、13年にはさらに1教室と講堂ができ、その間、自転車置場は2棟増加し、渡り廊下のかたわらには用度部が設けられました。1学級約30名から50名ほどの6学級、ほかに割烹室兼卓球室、作法室、職員室と講堂があり、運動場も十分とはいえないが、庭球でも排球でもインドアベースボールでも、また全校体操もできる広さになりました。まずもって本校の教育設備は、最善とはいえないまでも完備に近い状態にまでなったのです。

 創立記念日当日は、しかし時節がら、記念や祝賀の催しをとりやめました。そして、時あたかも銃後後援強化週間でしたから全校で小池神社に参拝し、校長訓話のあと卓球練習大会、記念茶話会などささやかな行事にとどめました。

 その間、14年7月下旬から8月上旬にかけて、高倉校長もしくは代理の教職員は、生徒代表をともなって、出征兵士を送り出している生徒の家庭を親しく訪問し、微意を表した粗品を贈ったり、また、戦死者遺骨の敬迎、帰還部隊の歓迎、出征部隊の歓送などが続きました。

 東三体操大会(第2回)が豊川球場において華やかに繰り広げられたのは同年11月6日です。この大会で本校生徒は、下級合同体操および行進遊戯、上級合同変形行進などに参加しています。同月11・12両日開催した恒例の展覧会・バザーは、両日とも快晴の秋日和に恵まれて盛会をきわめ、11月12日に開催した同窓会総会には7、80名の出席者があり、また同月15日の校内大運動会には、初めて行った魚釣競走に拍手が沸きました。

 ところで、裁縫科の実地は、教育的見地からは一斉材料がよく、また、生徒の都合のみを考慮すると個別材料にしなければなりませんでした。そして従来は、生徒数が少なかった関係もあって後者を採用していました。しかし、教育的見地の重視から、14年度からは一斉材料にすることを加味することにしました。これによって、両面ともにかなう理想的取扱いが可能となりました。

 なお、14年度当初、高倉校長愛好の謡曲・仕舞は、実4・本2組と実3組が準正課としてそれぞれ1週1時間、練習を行ってきましたが、同年12月2日からは謡曲部となり、有志によって運営されることになりました。

高倉校長、学力低下防止に乗り出す

 昭和15年7月、米内内閣総辞職のあとを受け第2次近衛内閣が成立すると、基本国策として「大東亜新秩序・国防国家の建設」を決定しました。その要綱をみると、「国家総力発揮ノ国防国家体制」「自我功利ノ思想ヲ排シ、国家奉仕ヲ第一義トスル」「国民ノ資質、体力ノ向上」「忍苦十年」「時難克服」という言葉が目にふれます。こうして、いわゆる「新体制」の根本方針が打ちたてられたのです。同じく7月、アメリカが、石油・屑鉄を輸出許可制にするとともに航空用ガソリンの西半球以外への輸出を禁止したことから、大本営・政府連絡会議は、東南アジアの資源獲得のため武力行使を含む南進政策を決定しました。いきおい、わが国と米・英との対立は激化していきました。同年9月には日独伊三国同盟が調印され、翌10月には大政翼賛会が発会式をあげています。

 こうした危機的状況に直面し、国内の各界・各層と軍・官との紐帯はいっそう強化されました。同年4月には「国民体力法」が公布され(17~19歳男子の身体検査を義務化)、また、米・みそ・醤油・塩・マッチ・木炭・砂糖など10品目に切符制採用が決定し、7月には「奢侈品等製造販売制限規制」の公布、12月には「洋紙配給統制規則」など次々統制規則が公布されました。文部省が「学生・生徒の映画・演劇観覧は土曜・休日に限る」と各学校長に厳達したのは同年8月です。

 緊迫の度を加えつつある内外情勢が本校内に波及しないはずはありません。15年1月8日の陸軍始観兵式には、初めて女学校部隊の分列式に本校生徒も参加しています。学力の低下はまぬかれませんでした。男子の労働力が不足するにつれて各部門における女子の進出が目だち、この影響もあって本校の女子教職員も不足がちとなりました。そこで同月10日、高倉校長は、全校の作法・割烹実習を担任し、また、最上学年(実4・本2)には公民教育の時間を強化すると同時に、学力の低下が卒業後に深く影響することを考慮して、可能な範囲であらゆる分野の指導に乗り出すことを決定したのでした。

 同年7月23日から8月31日まで、珠算、習字、裁縫、手芸を主として、夏期特別授業を開始したのはそのひとつです。またこの期間、裁縫専科正教員検定受験者には、別に教育学、心理学指導を10日間行っています。

戦時色を反映した服装

 昭和15年度の入学者は117名(実科47、本科1年34、同2年2、専科33、研究科1)でした。なおその後、本科1年1名、専科3名の入学者があり、合計121名となりました。

 この昭和15年には、わが国が2600年間、連綿として栄えてきた年にあたるということで、その祝典が国をあげて華やかに繰り広げられたのでした。国中にみなぎった伝統の誇りと新たな決意は、また服装事情にも大きく反映しました。男子服にはカーキ色の国民服が制定され(11月)、女学校生徒の制服も統制されて、へちま型の白えりで、ベルトつき紺サージの女学生姿が生まれたのもこの年でした。

 この年、本校でも、紀元2600年記念祝典の一環として、次のようなさまざまな行事が展開されました。

2月12日皇紀二千六百年ノ紀元節ニ当リ畏クモ詔書ヲ下賜アリタルニヨリ本日奉読ノ上訓話ス
6月19日紀元二千六百年奉祝銃後奉公祈誓大会本市大会(練兵場)実四、本二組参加ス
10月21日紀元二千六百年奉祝観兵式に参加
11月11日紀元二千六百年奉祝運動場拡張記念運動会
同月18日聖地巡拝修学旅行
職員、高倉校長始メ十一名、生徒全校有史百四十五名、奈良、畝傍、橿原、桃山、京都(泊)
十九日午前中京都、午後七時帰着
12月1日本校主催ニテ紀元二千六百年奉祝大政翼賛運動協力鍵田町運動会挙行
――『学校沿革誌』――

 こうした行事は、すべて時局の反映といえます。なおこの年、愛知県中等教育研究会が、県当局の諮問に対して「中等学校生徒に対する軍人援護思想涵養方策」を答申し、また実業教育調査部が、「実業学校に於て戦時国策に協力すべき物的方面の具体案」を答申するなど、愛知県下の教育界も、ますます戦時色化の傾向を示しています。

 15年5月12日、実科4年、本科2年の生徒35名は、高倉校長に引率されて、伊豆大島、東京、日光方面の修学旅行に出発し、同月17日、無事帰校しました。その直後の6月22日、文部省から修学旅行の制限が通達されました(昭和18年以降全面中止となる)。名古屋陸軍造兵廠豊橋兵器支部の奉仕作業に生徒が出動したのもこの年であり、6月25日から翌7月にかけて4回、延べ生徒数は378名に及んでいます。また、この年は「教育ニ関スル勅語」渙発50周年にもあたっており、その記念式が10月30日に東京で催され高倉校長が参列しています。

財団法人総和学園設立を発起

 在校生徒は300名にとどくほどになり、しかも、地方にまでその声望が及んで、入学出願者の数また年々増加する一方であり、募集を締め切らざるをえない現象もあらわれるなど、いまや本校の経営は充実し、新しい飛躍の時期を迎えていました。

 ときに、昭和12年に発足した教育審議会が、その後、「一層我が国教育の本義を徹底し国運の伸暢を図るに必要なる方策を求む」という政府の要請にもとづいて、戦時体制下に合致する教育全般にわたる方針を審議決定しました。その大要は次のようなものでした。

  1. すべての教育の目的・方針を皇国民の錬成修練に置き、各教育内容の分離を避けて統合をはかり、国民生活に即せしむること。
  2. 小学校を国民学校に改め、修業年限8年の義務教育とする。
  3. 青年学校の義務制実施の具体的方策をたてる。
  4. 師範学校の修業年限を3年とし、中等学校卒業程度をもつて入学資格とする。
  5. 中学校・高等女学校および実業学校を同一規定中に包括すること。
  6. 女子高等学校、女子大学を設置すること。

 このうち、義務教育8年制実施の問題は、前にもふれたように、昭和11年に平生文相の主導で計画立案されたものの、政変のため流産に終わったものであり、以上の教育方針は、16年の太平洋戦争開始による時局の急転によって全面的な実現が不可能となりましたが、最後の女子教育の問題を除き、だいたい次々に具体化されていきました。まず実現をみたのは青年学校の義務制(昭和14年)と国民学校の発足(16年)です。

 この教育方針はその後の学校教育の指標となったものだけに、高倉校長は、教育審議会の動向ならびに各級にわたる答申内容をかねてから注目し、それに対処する本校の方向を考慮し研究していました。そして、当局の教育的意図の全貌を知るに及び、昭和15年度後半になってようやく結論を得たのでした。すなわち、15年11月19日、文部大臣あてに財団法人総和学園設立の許可を申請するとともに、同学園を設立者として、「実業学校令」および「職業学校規程」による愛知高等実修女学校設置の認可もあわせて申請したのでした。

 発起の理由については、次のように記録されています。

一、従来ノ愛知高等和洋女学校ノ在校生徒三百ニ近ク学校ノ経営維持全ク安固トナリタルコト
二、一層其ノ基礎ヲ鞏固ニシ永キ将来ニ備フルト共ニ安ンジテ教育報告ノ実ヲ挙ゲタキ念慮切ナルモノアルコト
三、国民学校令ノ実施ト義務教育年限ノ延長トハ近クコノ種ノ学校ヘノ進学ニモ或種ノ影響ノ及ブ日有ルベキヲ予想シ之ニ備フルノ必要ヲ感ゼシコト
四、形実具備ノ中等学校タラザレバ即チ又真ノ教育ヲ行フニ思フニ任セヌモノ多キヲ痛感セルコト
五、殊ニ事変以来各種ノ配給機構其ノ他凡有事項ニ「置キ忘レラレタル学校」ノ悲哀ヲ嘗メサセラレ、様々ノ支障ヲサヘ見ルコトノ一再ナラザルノ度重ナレルコト等
以上ノ感慨ト事実トハ時日ト共ニ益々其ノ深度ト度数トヲ加ヘ来リテ今ハコノ儘静止シ能ハザルニ至ル

 表現はやや誇張のきらいがないではありませんが、事実、これまでは各種学校であるため、発起の理由のなかで述べている「置キ忘レラレタル学校」の悲哀を一再ならず味わったことは否めません。

(注)設置申請のときは愛知高等総和女学校としましたが、校名の「総和」は実業学校という表現に乏しいと文部省で難を示し、係官と協議のすえ「実修」とすることになりました。

愛知高等実修女学校の設置

 財団法人総和学園設立および愛知高等実修女学校設立の準備とその手続きについては、まず発起と相前後して、従来の校地1,120坪の西に隣接した畑地287坪が買収可能の運びとなり、期せずして本財団設立に不可欠の条件を具備することになりました。さっそく入手したこの西運動場の地ならし工事に着手したのは昭和15年10月14日です。当日は、在校生徒が交互に出動して協力しました。

 また、基本財産および普通財産は、校長高倉半次郎の所有物および高倉を設立者とする愛知高等和洋女学校の現有物で事足りることになり、設立条件はすべて完備し、次いで手続きの段階を迎えました。書類の作成にはほとんど高倉校長があたり、約2ヵ月を費やして、前にもふれたように、15年11月19日、ようやく設立認可申請のための必要書類提出の運びとなったのです。こうして一日も早く「実業学校令」による女子中等学校への昇格が待たれました。

 待つ身にとっては、時間の経過はことさら長く感じるものですが、この種のものとしては早いほうだといわれ、翌16年3月6日付けをもって、文部省から本財団設立許可ならびに愛知高等実修女学校設置が認可され、同月8日には新聞紙上に報ぜられ、また、同月10日の『官報』に記載されました。文部省の認可の告示は次のとおりです。

   文部省告示第二百十六号
職業学校規程ニ依リ左記実業学校ヲ設置シ昭和十六年四月ヨリ開校ノ件昭和十六年三月六日認可セリ
   昭和十六年三月十日
                                    文部大臣 橋田邦彦
名 称  愛知高等実修女学校
位 置  愛知県豊橋市鍵田町
設立者  財団法人総和学園
修業年限 第一本科 四年、第二本科 二年
入学資格 第一本科 尋常小学校卒業程度、第二本科 高等小学校卒業程度

 財団法人総和学園の初代理事長には高倉半次郎、理事には、近田久夫、白井源六、村松諫、下山嘉一郎、幹事には村田義一がそれぞれ就任しました。下山については改めて述べるまでもありません。下山を除く他の役員は、いずれも高倉とはつとに親交があるばかりでなく、本校の教職員として、あるいは常に相談相手として、これまで高倉校長を支援し協力してきた適任者たちです。

 社会の壁、教育の壁は思いのほか堅かったが、高倉校長はもとよりのこと、全職員の惜しまざる協力と支援、在校生徒の質の充実、愛知県当局の指示・鞭撻など総合力の発揮によって、ここに愛知高等実修女学校が正式発足し、初代校長には高倉半次郎が就任しました。

 ただちに祝意を表して、在校生徒一同はりっぱな大時計と花瓶を寄贈し、永く行動を飾る好個の記念となりました。同年3月13日には高師原への祝賀臨時小遠足、同月15日には祝賀披露市内小学校長招待宴と続き、全校をあげて喜びにひたったことはいうまでもありません。

「校軌」の実行

 昭和16年度の入学者は97名(第一本科25、第二本科69、専攻科3)であり、前年度より減少しています。ほかに、実科2年に編入した者が2名、専科へ進学した者が15名おりましたが、この新入学生の減少は、愛知高等実修女学校(以下「実修」と略す)の設置認可の時期と関係があったのです。つまり、「実修」の設置認可は15年度末の3月6日ですが、この時期は、すでに公立女子中等学校ではいずれも願書締切り後であり、いわば進学者の進路がほぼ決定したあとであったこと、加えて、16年度には豊橋市内公立女子中等学校2校が定員数を増加し、進学志望者のほとんどが入学可能となったという悪条件が重なったことに原因しています。

 「実修」開校第1年の16年度には、愛知高等和洋女学校(以下「和洋」と略す)在籍の実科2年、同3年、同4年と本科2年の生徒がおり、18年度末、すなわち19年3月にこの四学年の生徒が卒業するまでは両校が並立する実情にあり、したがって、多少の混乱や齟齬が校内に生じることはやむをえませんでした。当然、「実修」の生徒と「和洋」の生徒間の感情上の異様も予想されましたので、それを未然に防止するため、学級編成のうえでも考慮して、次のように学級名に呼び名をつけました。

 海組 第一本科1年
 空組 第二本科1年
 陸組 第二本科混合
 浪組 「和洋」実科2年
 山組 「和洋」実科4年
 星組 「和洋」本科2年
 月組 「和洋」専科

 時の流れは、全面戦争不可避の様相をみせてきました。そして、16年3月には「国民学校令」が公布されて、4月から国民学校が発足し、明治5年の「学制」頒布以来70年の伝統のある初等教育が一挙に変革されることになりました。すなわち、国民学校は「皇国ノ道ニ則リテ初等普通教育ヲ施シ国民ノ基礎的錬成ヲ為ス」(「国民学校令」第1条)ことを目的とし、国民科、理数科、体錬科、芸能科、実業科の5教科を内容として、錬成、修練、団体的訓練を行うものであり、義務教育8年制は19年度から実施の予定となりました。いうまでもなく、初等教育に戦時的性格をもたせ、国民精神の高揚、知能の啓発ならびに国民体位の向上、当時の言葉でいえば、「知徳心身を一体として国民を錬成し、八紘一宇の肇国精神を顕現すべき次代の国民育成」がねらいでした。この学科編成の基本方針は、その後、中等学校にも適用されたのです。「一層それこそ更新の意気を燃え立たせてしつかりやらねばならぬ。学校そのものをしつかり整頓して、学校を一丸としての雰囲気が、今のこと未曾有の難局下のお国のお役に少しでも立つ様にせねばならず、内にあつてはしつかりした生徒に育て上げて、やがて天晴お国のお役に立てる子にせねばならぬ」(『実修』昭和16年12月)と決意を新たにした高倉校長は、16年6月18日、本校の教育活動の一切を総括して「校軌」と名づけ「学則」「校規」「行規百箇条」「日軌三十条」、さらにそれらに必要な細則を設け、教職員には別に「職員日軌」をつくり、それらを印刷物にして全教職員・生徒に配布し、厳格なる実行に入りました。当時の国情と、それに関連した本校の教育体制がしのばれます。

学校報国団、特設自衛団など隊組織結成

 昭和16年6月3日から3日間、勤労作業週間を設け、各組生徒は出征軍人農家の畑耕作・草刈り・集肥作業や通学路修理など、与えられた仕事を黙々と続けました。馬糞集めに街頭に立つ集肥作業・・・・・・、遠い昔といわず2、3年前の生徒さえ夢想だにしなかったこうした作業に対して、ひとりとしてしり込みや愚痴をいう生徒はいませんでした。

 国家の要請する食糧増産の一助となり、ひとつには生徒の勤労意欲を増進し、また身体の錬成になると、学校敷地に南接した畑約7畝歩を学校農園としたのは4月11日です。

 また4月24日から4日間、毎日80余名の生徒が名古屋陸軍造兵廠豊橋兵器支所の軍役奉仕作業に出動しました。翌7月21日からは、夏期休業を延期して鍛練旬間とし、各組生徒は2日ずつ計6日間、同じく豊橋兵器支所の軍役奉仕作業に出動したり、さらに8月中は、珠算、硬筆習字、習字、茶花、理科植物採集の授業および裁縫、手芸を3日ないし5日間実施して、滞りがちの学業を補完すると同時に、兵器補給廠豊橋分廠の軍役奉仕作業を5日間、愛知県農事試験場作業を1日、そして学校農園作業と、休む間もない日程を消化しています。

 一方、身体の錬成ということでは、同年5月12日の豊川河岸より船による前芝海岸に至る全校遠足を皮切りに、翌6月30日、体育聯盟主催による東三中等女子部競技会の排球、卓球試合に出場し、10月29日には西運動場における校内体育大会、翌11月2日には本校校庭における第2回鍵田町体育大会、同月10日には東三体操大会への全校参加と、若いエネルギーを発散させています。

 文部省から各学校に、全校組織の学校報国隊(団)の編成が訓令されたのは同じく16年の8月です。さらに、10月に入ると大学・専門学校・実業学校などの修業年限が短縮され、16年度からは3ヵ月、17年度からは予科・高校を加え6ヵ月短縮されることになり、いわゆる「繰り上げ卒業」がはじまっています。翌11月には「国民勤労報国協力令」が公布され、男子は14歳から40歳、未婚女子は14歳から25歳の勤労奉仕が義務化されました。そして、国民勤労報国隊を組織して一年に30日以内、軍需工場などで勤労に服することになったのです(学校報国団が結成されている学校は国民勤労報国隊とみなされた)。これらは、戦争にそなえ、労働力・戦闘要員の不足を補うための一連の措置でした。

 文部省訓令にもとづき、本校に学校報国団、特設自衛団、警防生徒隊、全校生徒隊の隊組織を結成し、その結成式を行ったのは16年9月16日です。同時に国民貯蓄組合もつくりました。越えて10月3日は本校創立記念日で休日でもありましたが、銃後奉公強化運動の第1日目にあたっていることから、あらかじめ計画して、午前9時、不時呼集を発令し、全教職員・生徒が出校しました。同月7日には正常歩修練会を実施し、219名の生徒が参加して、一列縦隊・間隔2メートルで、中柴より新川を経て旧東海道を東上して二軒茶屋に至り、山田街道を通って帰校しました。補講時間1時間42分30秒、「一名ノ落伍ナシ」と記録されています。また、同月20日には特設自衛団による防空避難訓練も行われました。

 同年11月10日、熱田神宮より勤労報国隊旗を拝受し、翌11日から4日間初めて勤労報国隊は、毎日70名ないし100名を編成して出動し、福岡校区の遺家族の家庭の奉仕作業を続け、同月18日から2日間は、兵器補給廠豊橋分廠の軍役奉仕作業にも出動しています。なお校誌の題字に依頼していた橋田文相の染筆「実修」が到着したのは同月11日でした。

太平洋戦争の開始

 本校付近――富本町から橋良、小池、前田南、船原、旭の各町にかけ大旋風が襲来したのは昭和16年です。11月28日午前6時58分、突如、襲来したこの大旋風により、一瞬にして死者13人、重軽傷者30人、倒壊家屋44戸、半壊家屋330戸という被害を受けました。当鍵田町内は100戸足らずの戸数ですが、全壊家屋数戸、半壊家屋数十戸、負傷者も十数人に及びました。ことに、近接の盲唖学校(現県立豊橋盲学校)の惨状は正視できないほどでした。幸いにも本校の寄宿生は無事であり、学校は、炊事場・住宅の一部を損じ、屋根瓦数ヵ所250、60枚、西方板塀十数間の破損という被害(復旧費約100円)にとどまりましたが、授業が平常に復したのは翌12月2日からです。

 16年4月、日ソ中立条約が調印されましたが、6月、ドイツは独ソ不可侵条約を破ってソ連に侵入しました。同月、日本軍もまた南部仏印に進駐したことから、翌7月、それに対する報復としてアメリカは在米日本資産を凍結し(続いて同月、英・蘭も同調)さらに8月、同国は対日石油禁輸を含む一切の対日輸出を禁止しました。そこで9月には、翌10月下旬を目途として対米・英・蘭戦争準備を完成するという帝国国策遂行要領が御前会議において決定され、10月には東条内閣の登場となりました。この東条内閣の出現は軍部の開戦論に拍車をかけ、ついに12月8日、日本時間午前2時、日本軍はマレー半島に上陸を開始すると同時に、ハワイ真珠湾を不意打ちして米戦艦主力を撃破し、太平洋戦争の開始となりました。

 時の愛知県知事相川勝六氏は、12月12日、県下学校長会議を召集して「太平洋戦争宣戦布告に際して県下教育者に告ぐ」の演説を行い、最後に「皆さん自身が真に愛国の士となり、東亜新秩序建設の先覚者たる精神をもって、火のような熱烈な魂を生徒に移し植える」ことを要請し、教育者の覚悟をうながしました。

 太平洋戦争に入ってからは、軍役奉仕作業に出動する回数はさらに増えました。

 しかし「展覧会は今年も行ひます。時局が時局なら尚更、他の行事が色々あれば尚更、隊組織や奉仕作業が複雑になれば尚更、尚更学業は大切です。学業が大切なれば、この展覧会による生徒の学業の奨励鞭撻は更に尚更必要なわけです。我校は創立以来一年たりともこれを止めません。バザーや食堂のざわめきは出来なくとも、それだけに真に真剣です」(『実修』「後記」昭和16年12月)と、同年12月20・21両日、成績展覧会を開催しています。

 当初、展覧会は11月29・30両日開催予定でしたが、大旋風禍のため延期し12月13・14両日と決定しました。それが、太平洋戦争の開始により再度延期を余儀なくされたのですが、生徒たちの執念は、ついに万難を排して実現の運びとなったのです。この年からは、防空ずきん、もんぺ、ゲートルの非常時服装がとくに目だつようになりました。

退勢に巻き込まれた教育

 国民が緒戦の勝利に酔っていたのはつかの間のことでした。昭和17年6月、ミッドウェー海戦の敗北を機に戦局は逆転のきざしをみせ、同年9月には日本軍はガダルカナル島奪回に失敗し、日を追って劣勢の立場に追い込まれてきました。このため、いっそう軍需生産の増強が促進され、生活必需品は極端に不足を告げるようになりました。ヨーロッパの戦局をみると、この年11月、米英連合軍は北アフリカ上陸作戦を開始し、ドイツもスターリングラードで退却して、対戦の勝敗を左右する転換点が訪れていました。

 翌18年2月、陸軍省は決戦標語「撃ちてし止まむ」のポスターを配布して戦意の高揚につとめましたが、同年5月にはアッツ島守備隊全員玉砕、7月にはキスカ島の日本軍撤退、11月には中部太平洋の要衝であるマキン・タラワ両島の守備隊玉砕と、敗色は深まるばかりでした。国内必勝勤労対策が打ち出されたのは同年9月であり、売店員・出改札係・車掌・理髪師など17職種の男子就業が禁止され、25歳未満の女子を勤労挺身隊として動員することになりました。また同年12月には徴兵適齢1年引下げの非常措置がとられたのでした。時を同じくして、ヨーロッパ戦場においてもドイツ軍は後退を続け、18年5月、北アフリカ戦線の独伊軍が降伏し、9月にはついにイタリアが無条件降伏して防共枢軸国の一角がくずれ、枢軸側の支配諸国に動揺がおこりました。

 退勢のうずのなかに巻き込まれていた当時の教育に、いくたの混乱・矛盾・破壊がみられたことは否めません。

 まず、17年7月、文部省は高等女学校の英語を随意科目、週3時間以内とすることを決定し、18年1月には中学校・高等女学校・実業学校の修業年限が1年短縮されて4年制となり(4月施行)、同時に、大学予科・高等学校高等科の修業年限も2年に短縮されました。「工場就業時間制限令」が廃止されたのはこの年の6月であり、婦女子・年少者の鉱山坑内での就業もはじまりました。次いで同月、閣議は、軍事訓練と勤労動員の徹底をはかるため「学徒戦時動員体制確立要綱」を決定しました。さらに、劣勢をばん回するための非常措置として学徒の出陣が要請され、10月には理工科系統および教員養成諸学校学生のほかは徴兵猶予が停止となり、また年間3分の1の勤労動員が課され、19年度から実施を予定していた義務教育8年制が無期延期となりました。文部省が学童の縁故疎開促進を発表したのはこの年12月です。

勤労報国隊のいじらしい活躍

 情勢が急迫を告げだした昭和17年1月2日、閣議で、毎月8日を大詔奉戴日とすることを決定し(興亜奉公日廃止)、各学校では、その日に宣戦の詔書奉読式を行うことになりました。

 同年1月13日から同月31日まで、毎日午前7時30分から約50分間、約50名の生徒が参加して本校謡曲部の寒稽古がはじめられました。なお、同月10日には豊橋市立女学校長協会が発会式をあげ、「向後生徒募集ニ関シ家庭及国民学校訪問ヲナサゞルコトヲ申合決議ス」を記録されています。

 この年からは、本校勤労報国隊のいじらしい活動が目だっています。まず、1月28日から4日間、石川組製糸場内の軍需野菜乾燥場に出動して玉ねぎの皮むき作業、次いで、2月23日から翌3月4日まで兵器補給廠豊橋分廠の軍役奉仕作業、そして、引き続き石川組へ出動しています。また、学校農園の耕作にも励んでいます。その間、授業としては、わずかな時間を利用し、全校を3組にわけて競書会(3月13日)、全校から約50名選抜して珠算競技会(同日)などを実施していますが、終了すると同時に、ふたたび石川組へ出動といったあわただし日々の連続でした。

 17年度の入学者は112名(第一本科1年35、第二本科1年60、同2年5、専攻科12)でした。そして、17年度から、学級名の呼び名は次のように改められました。

 勤組 第一本科1年
 励組 同 2年
 勝組 第二本科1年
 建組 同
 翼組 第二本科2年
 賛組 同
 制組 専攻科

 航空母艦発進の米陸軍機16機が、東京、名古屋、神戸などを初空襲したのはこの年4月18日であり、午後2時、豊橋市内にも初の空襲警報が発令されました。

 国民体位の向上が強く叫ばれているおりから、この年も、本校はいろいろな体育行事に参加したり、また主催したりしています。おもなものを拾ってみると、耐寒国民心身鍛練運動参加があります(2月2日~同月10日)。期間中、生徒たちは毎日、体操・駆け足・正常歩を約30分、学校農園作業および運動場・小池神社・通学路の清掃・補修を約1時間行っています。このほか前年初めて実施した正常歩修練会開催(2月3日)、建民運動参加(春季・秋季)、学校報国団三河部女子体育大会出場(5月30日)、有志(教職員・生徒31名)による富士登山(7月27日)、校内錬成大会開催(10月30日)、第5回東三地方体操大会出場(11月12日)などがあります。この間、5月22日には「青少年学徒ニ賜ハリタル勅語」奉戴記念視閲式に参列し、7月6日には陸軍病院高師原分院へ学芸慰問に行ってます。

 東京市肇国奉公隊に参加すべく、第二本科2年生徒76名が、高倉校長以下4名の教職員に引率されて出発したのは同年6月9日でした。これは、前にもふれたように、修学旅行が制限されたことから、宮城外苑奉仕作業に名をかりた修学旅行でもありました。そして、同日午前中、宮城外苑奉仕作業に汗を流し、午後は東京市内を見学し、翌10日に日光の東照宮を参拝して帰校しました。

 9月の第2学期に入っても、ただちに同月3日から28日までの26日間(日曜・祭日を含む)、毎日1学級が勤労報国隊として石川組製糸場に出動し、また、翌10月8日には軍人後援強化運動に呼応し、出征中の生徒の父兄34氏に慰問袋を発送するなど、けなげな生徒たちの活躍が続けられました。

 生徒の制服を「1 配給型(国民服)バンドニ細白緑ヲ附ス、2 従来ノセーラー服ニ白三線ヲ附ス」と規定したのは同年10月1日でした。

戦前最後の修学旅行

 昭和18年度の入学者は151名(第一本科1年34、同2年2、第二本科1年107、専攻科8)となり、14年の120名を超え創立以来最多数となりました。

 18年以後、修学旅行が全面中止となったため、同年6月8日から12日まで、高倉校長ほか2名の教職員に引率された77名の生徒による東京・日光行き――前年に引き続き外苑奉仕作業を兼ねた勤労・参拝旅行が修学旅行としては戦前最後になりました。

 さらに、18年で特記すべきことは、7月13日、名古屋陸軍造兵廠豊橋兵器支所構内の草地を無償貸与され、翌8月1日から教職員・生徒が交代で開墾をはじめたことです。当時の『朝日新聞』は、「学徒ハ戦フ」の見出しで次のように報じています。

 陸軍○○廠出張所ノ空閑地ニケフモマタ乙女部隊ガ大地ニ挑ム聖鍬ヲ揮ツテ雑草ノ伸ビルニマカセタ空地開墾ニ汗ノ敢闘ヲツゞケル、他ノ一隊ハ刈取ツタ雑草ノ整理ニ大童、豊橋市愛知高等実修女生百三十名ハ去ル一日カラ連日食糧増産ノ一翼ヲ担ツテ決戦ヘノ闘魂ヲ沸ラセテイル。

 国内必勝勤労対策が打ち出された同年9月2日には直衛隊が組織され、校内は、さながら兵営化の様相をしだいにみせてきました。そして、同月7日からは防空壕掘り作業がはじまっています。本校の勤労報国隊が、この年、いっそうひんぱんに出動したことはいうまでもありません。

 県へ出品した慰問袋4個のうち2個が優秀10個のなかに入り、入選校として賞品・賞状を授与されたのは同年12月8日でした。

しのび寄る破局

 昭和19年2月、マーシャル群島のクェゼリン・ルオット両島に米軍が上陸し両島守備隊玉砕、同月、米機動部隊がトラック島を空襲・・・・・・と、占領した南方諸島は次々米軍の手におちました。一方、ドイツの崩壊も時間の問題とみられるようになると、米軍の対日反攻はいちだんと激しくなり、日本はいよいよ窮状におちこみました。同年7月、マリアナ群島失陥の責任をとってついに東条内閣が総辞職し小磯内閣の登場となりましたが、もはや戦局のゆきつくところは明らかでした。8月には、同じくマリアナ群島のテニヤン守備隊玉砕、グアム島守備隊玉砕の悲報が相次ぎました。10月に入ると兵役年齢がさらに引き下げられ、17歳以上を兵役に編入しようとしましたが、同月、レイテ沖海戦では連合艦隊の主力を失いました。劣勢をなんとか回復しようと、日本軍はこのレイテ沖で初めて「特攻隊」を使いましたが、実際上の効果は少なく、いたずらに学生や少年航空兵出身の若い生命を犠牲にしただけでした。太平洋戦線の崩壊と前後して、ビルマや中国大陸においても日本軍の戦線はくずれはじめてきました。11月24日にはマリアナ基地を発進したB29約70機が東京を初爆撃し、以来、日本本土に対する大規模な空襲がはじまり、国民の不安動揺は高まるばかりでした。

 豊橋地方に空襲警報が発令されたのは東京初爆撃の前日午後0時半です。それから月末まで3回、空襲警報が発令されています。すでに17年5月の「金属回収令」による強制譲渡命令が発動されて、豊橋市内350余の神社・寺院から多数の銅製品が供出されましたが、19年には、市民に親しまれた岩屋観音も姿を消しています。豊川の大橋の手すりも木製に換えられました。

 しのび寄る破局を目前にした19年には、本土決戦にそなえて、全国を兵営化するため銃後国民の大動員が行われました。もちろん、学生・生徒もすべ戦力増強の一点に向かって動員されました。すなわち、3月には、これまで許されていた1週6時間の授業を停止し、学徒動員は通年実施となり、5月には「学校工場化実施要綱」が発表され、次いで、7月には国民学校高等科・中等学校低学年男女生徒の動員ならびに深夜作業の強化が打ち出されました。閣議において「国民総武装」を決定し竹槍訓練などがはじまったのはこの年8月からです。また、空襲の激化とともに、被害を最小限に食いとめるために、大都市では、建物の強制取壊しや学童の集団疎開も実施されるようになりました。さらに、8月には「女子挺身勤労令」が公布され、兵器・食糧増産への男女青少年学徒の動員が指令されました。

高倉半次郎校長の逝去

 さて、迎えて昭和19年度は、創立20周年の記念すべき佳節にあたっていました。

 ところが、1月10日午前7時50分、理事長・校長高倉半次郎が逝去するという悲しい出来事に遭遇しました。前年の12月5日、十二指腸潰瘍で倒れ、いったん回復したのですが、12月14日、ふたたび悪化して危篤状態となり、ついに帰らぬ人となりました。享年58歳でした。

 郡視学としての教育経験を私学において真に発揮すべく、愛知和洋裁縫女学校設立に参画した故高倉校長は、昭和4年、混乱と沈滞の一時期に再建の労をとって第3代校長に就任し、全私財を投げうって本校の教育事業に心血を注ぎ、苦難の明け暮れのすえ、ようやくその基礎を確立させたのでした。以来、施設の充実とともに教育内容の整備に力を尽くし、16年3月には、さらに学校の基礎を強固にするため財団法人総和学園を設立し、「実業学校令」による愛知高等実修女学校へと発展させ、その教育の真価が大いに地域社会に認められてきつつあった矢先でした。

 昭和6年、宝飯郡大塚村(現蒲郡市大塚)にあった別荘の建物を校内に移して観水荘と名づけ、そこを個人の修養道場とし、書を読み、得意の筆を走らせ、あるいは瞑想にふけるのを常としていました。ときには趣味の謡曲を練習している声も聞こえました。その声も今はなく、その他界は、本校にとって一大打撃というほかはありません。

 本校の歴史とともにあゆんだ非凡な先覚者・高倉半次郎校長の人柄は、本校の精神として継承され、今なお、脈々として流れているといって過言ではありません。「校風の三和」である「和親、和協、和楽」そのもの。常に周囲の人々に感謝しつつ、また、常に謙虚であり、私事を顧みることなく、本校のためひたすら念慮し、常に独自の教授法を編み出すことに努力した名校長でした。

 1月16日、故高倉校長の校葬が行われ、参列者一同は粛然と焼香のあゆみを進め、その霊を弔うと同時に、その遺業を完成し、その遺徳を後世に伝えることを誓ったのでした。それは戦火のなかで迎えた創立20周年に先がけての悲しい誓いでありました。

東南海地震で生徒3名殉職

 高倉半次郎亡きあと、ただちに夫人高倉すゞ舎監が財団第2代理事長に就任し、とりあえず稲垣一雄教頭に校長事務取扱を委嘱し、戦時下の苦難のなかで本校を盛り上げる力が結集されていきました。

 昭和19年3月20日には、18年度卒業生を対象に勤労女子挺身隊が結成されました。2年生に対し、19年度4月から名古屋市瑞穂区の中島飛行機(株)半田製作所瑞穂工場に出動すべき旨の指令に接したのは3月23日です。そこで、3年生に進学してまもない生徒全員は、4月14日、前記工場に出動しました。

 このように、19年になると、入学式を終了すると同時に、生徒たちは軍需工場への動員割当てを受け、戦力増強の一員として出動して行ったのです。

 その後、瑞穂工場に出動中の3年生は、同年6月1日、半田市乙川の同じく中島飛行機(株)半田製作所山方工場へ配置転換させられました。また、4年生全員が豊川海軍工廠への出動命令を受けたのは4月15日でした。さらに、9月15日には1・2年生も同工廠へ出動を命じられました。したがって、10月3日の創立20周年記念日には、記念祝典をあげるどころではありませんでした。

 19年も押し詰まった12月7日午後1時ごろ、東海地方に大地震・大津波がおこり、一瞬にして死者998人、全壊家屋2万6,130戸という災害をもたらしました(東南海地震)。とくに三河と尾張南部地方は大きな被害を受けました。この地震により前記の山方工場が崩壊して死傷者続出し、そのなかには本校生徒の殉職3名、重傷者1名が含まれるという悲惨な事態が発生しました。しかも、空襲の目標になるといわれて、地震による犠牲者の遺体は戸外での火葬を禁じられた末世を思わせる時代でした。

 この当時の学校内の様相をみると、虚弱体質の生徒20名ほどが残存しているだけでした。そして、ほとんどの教職員が動員された生徒に付き添って軍需工場入りをしていたので、留守をあずかる1、2名の教職員によって、ほそぼそと授業を続けていました。居残りの教職員たちは「学力の最低水準」の確保だけはやろうと、切り詰められた時間内で、自分の専門外の各教科の最低を教えるのに苦慮しました。が、学校は、事実上、機能を停止したと同じでした。

 こうして、高倉校長の死、地震による生徒の殉職という悲しみにみちた19年は、あわただしく暮れていきました。

学校の教育機能全く停止

 昭和20年を迎えると、日本本土に対する戦略爆撃はますます激しくなりました。そこで最高戦争指導会議は、1月、軍需生産増強・生産防衛態勢強化など本土決戦即応態勢を打ち出しました。「本土決戦」「一億玉砕」が叫ばれだしたのはこのころです。不具者・病人を除いた徴兵適齢者は根こそぎ軍隊に動員されたため、この年3月には「国民勤労動員令」が公布されました(国家徴用令・国民勤労協力令・女子挺身勤労令・労務調整令・学校卒業者使用制限令を廃止・統合)。

 しかしながら、時すでに遅く、敗色の影が深くおおいかぶさりました。3月9日、130機のB29は東京を無差別夜間爆撃し(12日名古屋・14日大阪・17日神戸に来襲)、5月までに大都市のほとんどが焼きはらわれました。硫黄島の日本軍が玉砕したのは3月17日です。同月、閣議は「決戦教育措置要綱」を決定し、国民学校初等科以外の授業を4月から1年間停止することにしました。翌4月、米軍が沖縄本島に上陸を開始し、同月、小磯内閣が総辞職して鈴木内閣が成立しましたが、5月にはついにドイツが無条件降伏し、沖縄の北方部隊もまた6月には全滅し、日本は全く四面楚歌の状態に追い込まれ、大きく揺れだしました。沖縄は全島焦土と化し、「ひめゆり部隊」の女学生や老幼婦女子までも巻き込む悲劇を生んだのです。さらに、本土決戦の呼びかけとともに、この年5月には「戦時教育令」が公布され、大政翼賛会および傘下諸団体は解散し、学生・生徒・青年を問わず、すべて学校系統のもとに再編成し、文部大臣統率のもとに大日本学徒隊を組織し兵力の一翼をになうことになりました。

 学校教育は、正常な機能を全く失いました。

豊橋、灰燼に帰す

 昭和20年1月13日、東海地方はふたたび激しい地震に見舞われ、死者1,961人、全・半壊家屋1万7千戸という災害を受け(三河地震)、不気味な年明けでした

 稲垣一雄校長事務取扱が退職し、元本校教諭(昭和14年4月~15年10月在任)の鬼頭正一が、全校の要望をになって愛知高等実修女学校第2代校長(通算4代目)に就任したのは、同年4月1日です。鬼頭校長は、早稲田大学高等師範部卒業後ただちに本校教諭となった人です。以来、高倉すゞ理事長を助けて、混乱その極にある戦争末期、本校の支柱となって奮闘しました。

 同年15日午前6時50分ごろ、B291機が来襲して本校付近12、3ヵ所に投弾しましたが、幸い、本校はガラス5、6枚の破損ですみました。

 すでに、本校生徒のほとんどは豊川海軍工廠、中島飛行機(株)半田製作所などに動員されていたにもかかわらず、さらに翌5月29日、県内政部長および学徒動員本部長から、報国重工業(株)花田工場への出動命令を受けました。そこで6月4日、建組(第二本科)が出動しました。

 20年の6月20日は、豊橋がついに大空襲にさらされた日です。午前0時40分ごろから約3時間、豊橋市はB29約90機により爆撃されました。降りそそぐ焼夷弾は、難民のように逃げ回る市民を白日夢のように照らしだしました。罹災世帯1万7,019戸、罹災人口7万1,502人(全人口の50パーセント)、死者624人、重軽傷者344人、家屋の全焼・全壊1万6,886戸(全戸の70パーセント)に及び、市街地の大半が灰燼に帰しました。幸い、本校建物などは災害をまぬがれましたが、生徒1名が戦災死し、教職員5名と生徒多数の家が罹災しました。

 その後も米軍機の飛来はひんぱんでした。翌7月24日には艦載機およびB29が半田方面に来襲し、生徒1名が軽傷を負っています。

豊川海軍工廠の悲惨

 空襲は執拗に繰り返され、不気味なサイレンは、日ごと夜ごと、市民の不安をかきたてました。ちなみに、昭和19年11月から終戦の日まで、名古屋とその周辺には警戒警報358回、空襲警報91回以上発令されたことが記録されています。

 数年を費やし、ばく大な国費を投じて建設され、近代設備を誇っていた豊川海軍工廠が、言語に絶する激しい爆撃で廃墟と化したのは20年8月7日でした。その日の午前10時ごろ、米機百数十機が豊川地方を吸収し、ねらい撃ちされた同工廠は一瞬にして猛火につつまれました。

 当時、同工廠には、60余名の本校生徒が常時出動していましたが、当日は、44名が軍需生産に携わっていました。空襲解除とともに中西義雄・高倉久美子両教諭が現地に飛びました。午後3時ごろ第一報が学校に入り、以後、1時間ごとに第5報まで届きました。それによると、2年生18名が犠牲となったことがまず判明し、予想外に悲惨な状態であることがわかりました。続いて、村田よし教諭が現地へ飛び、翌8日には太田あい子、鈴木定雄両教諭が応援のため急行しました。そして、多くの死体のなかから生徒たちを捜し求めました。

 「爆風ではね飛ばされた鉄帽に鮮烈な血があふれていた。白い片腕が落ちていた。顔を真二つに割られた首があった。首のない胴体があった。海軍道路の木の枝に、若い女の生首が髪の毛で引っ掛かっていた」(『ああ豊川女子挺身隊』辻豊次編著)――この空襲で、動員学徒を含む2,477人の人命が失われたのでした。そのなかには、豊橋市内11の中学・女学校生徒303人と引率教職員7人、女子挺身隊員27人が含まれていました。本校の犠牲者は、2年生22名、3年生1名、挺身隊員6名でした。2年生22名は一つの防空壕に避難したのですが、直撃されたのです。

 工場前に整列していたときに爆撃をうけ防空壕に入ったのですが、それがうずまりました。すぐ掘り出してもらいましたが、あたりは昼なお暗く、わずかに逃げまどう人々の足先が見えるだけでした。続いて、次の爆撃をうけ、伏せたのですが右足大腿部をえぐられました。

 硝煙が去ると、手首のとれた人が倒れていたり、死体がころがっていました。記録がうすれかかったが、そのとき、逃げて行く人がぶつかり、はっと気力を取りもどしました。そして、煮しめたようなエプロンを引きちぎって足をしばり、歩きだしました。途中、ある男性に呼びとめられて防空壕のなかに入りました。防空壕には傷ついた人がたくさんおり、いずれもみな生きては出られないといいあいながら、お互いにさよならをいいました。・・・・・・

 炎と恐怖のなかをさまよい、気力をふりしぼってみずから死地を脱出し、奇跡的に助かった伊賀野和子(第一本科3回卒)は、当時を回想してこう語っています。

 その後、鎮守府から、犠牲者を海軍軍属とし戦死として取り扱うことが公表され、合同葬を取り行う旨、同工廠から通達がありました。

 戦争はいよいよ大詰めに近づきました。市街の焼失9割に及び、二十数万の人間を一瞬にして殺傷した8月6日の広島における原爆投下に続き、同月8日にはソ連が対日宣戦を布告し、翌9日、さらに長崎に2発目の原爆が投下され十数万人の死傷者を出しました。このため、10日に最高戦争指導会議が開かれて、ついにポツダム宣言受諾を決定し、20年8月15日、満州事変勃発から数えて14年間続いた悪夢のような戦争は終わりました。

 「和平ノ聖断降ル 正午御親ララヂオヲ以テ詔ヲ下シ給フ 噫」(『学校日誌』)――この敗戦の日は、真夏の晴れ渡った暑い日でした。

民主教育への模索――愛知実修女子高等学校に以降――

戦後教育改革の胎動

 昭和20年8月15日を境に、わが国の政治・経済・社会は、連合軍総司令部(GHQ)の指令に従いながら大きく変容していきましたが、教育のうえでも大きな変化がもたらされました。すなわち敗戦の年、いわゆる教育の民主化のひとつである「日本教育制度ニ対スル管理政策」が出され(10月)、続いて、教育関係の軍国主義者の追放(同月)、「修身、日本歴史及ビ地理停止ニ関スル件」(12月)と次々に重要指令が出されました。

 いうまでもなく、これらは極端な国家主義的・軍国主義的な教育・思想の普及を禁止し、基本的人権の思想に合致する教育内容の実践の確立を勧告するものであり、その後の日本の教育改革の基礎をつくったものです。文部省においても、学徒の動員を解除し、あるいは「新日本建設ノ教育方針」を発表し(9月)、また、学校報国団を解体し自治的校友会に再編するよう通達したり(同月)、学校における柔剣道・教練を廃止する(10月)など、GHQの方針にもとづいて種々の訓令・通達を発し、教育の戦時体制一掃を命じました。

 翌21年3月、米国教育使節団が来日しました。そして同使節団の報告書が提出されると、日本の民主主義教育の路線はさらに一歩を進め、同年、公民教育の実施(国民学校5年以上に課外として実施)が通達され(5月)、『新教育指針』が刊行され(同月)、教育刷新委員会(24年教育刷新審議会と改称)の設置(8月)、教育勅語奉読の廃止(10月)、当用漢字、現代かなづかいの告示(11月)となり、22年3月には、「教育基本法」「学校教育法」の公布となって6・3・3・4制が規定され、次いで、23年7月の「教育委員会法」の公布・・・・・・と、戦後日本の教育再建の施策が方向づけられました。

 敗戦を契機として、差別を撤廃し、教育の機会均等をはかり、義務教育を3年延長して中学校までを義務化し、高等学校は総合高等学校となって男女共学を原則とし、旧制の大学と専門学校・師範学校の社会的差別をなくして、すべての高等教育機関は「大学」という名称に統一されたのです。とくに、戦後の民主的な教育体制の確立および教育改革の実現にとってもっとも基本的な意義をもつのは、「日本国憲法」の制定であり(21年11月公布、22年5月施行)、これに続く「教育基本法」の制定でしょう。旧憲法には教育に関する条項はなかったが、新憲法においては、国の基本に関する定めのひとつとして、第26条で、国民の教育を受ける権利、教育の機会均等、義務教育無償の諸原則が的確にされ、教育を受けるのは、国家に対する義務ではなく国民の権利であるとされたことです。そして、これを土台に制定された「教育基本法」では、「個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期する」ことが教育の目的とされたのです。

 こうして、戦後の教育は、GHQの占領政策の一環として全面的な変革が行われ、物資の乏しさや施設の貧しさに苦しみながらも、自由を謳歌し、人間的な自由の息吹がみなぎり、明るい希望に満ちたものになると同時に、また新しい教育は、日本の民主化にとって最大の推進力となりました。

一部授業開始

 さて、文部省は、昭和20年9月、『新日本建設ノ教育方針』を発表し、「今後ノ教育ハ益々国体ノ護持ニ努ムルト共ニ軍国的思想及施策ヲ払拭シ平和国家ノ建設ヲ目途トシテ謙虚反省只管国民ノ教育ヲ深メ科学的思考力ヲ養ヒ平和愛好ノ念ヲ篤クシ・・・・・・」と述べ、国体維持のもの平和国家建設のための教育理念を示しました。そして、その趣旨を徹底させる目的で、翌10月に新教育方針中央講習会を開催しました。これにもとづいて、愛知県においても愛知県新教育方針の決定をみ、県下の各学校に伝達して文化日本・平和日本建設のための学習が指示されました。

 戦時中から戦後にかけて盛んに使われた「純綿」という言葉は、いまは全く私たちの生活から消え去ってしまいましたが、当時、布といえば、木材の繊維からつくったステーブルファイバーと綿糸との混紡交織でした。それが、やがてオールスフになりました。スフの靴下は一日はけば穴があき、スフのシャツは汗をかくとピタリと肌につき、脱ぐとピリピリと裂けました。したがって、「純綿」は高級品・貴重品の代名詞、スフは代用品・粗悪品の代名詞となり、米ばかりの真っ白い「純綿の御飯」は、国民のあこがれの的でした。

 敗戦の混沌のなかで、教育に対する将来の見通しもたたず、飢餓と生活苦、交通機関の麻痺など多くの困難をともなっていたこの期、運よく戦災からまぬかれた本校――愛知高等実修女学校の一部授業が開始されたのは20年10月8日です。戦時中の苦難があまりにも大きかっただけに、この日の感激は筆舌に尽くしがたいものがありました。

 しかし、敗戦のこの年には、豊橋市役所からの要請により、戦災で荒れ果てた市内道路の清掃作業にしばしば生徒は狩り出されています。遺族30人が参列して、勤労動員中に戦没した本校生徒合同慰霊祭を行ったのは同年11月30日でした。

復興急速度に進展

 厳しい教育統制から開放され、自由な教育活動復興のきざしが国内にあらわれはじめたのは昭和20年12月ごろからです。同月5~11日にわたり、愛知県では18の会場において、4,710人が参加して新教育方針伝達講習会が開催されています。この講習会のおり、「新教育」「民主主義教育」という言葉が使われはじめるようになりました。

 ところで、戦後の教育改革のなかで、とくに教育界に大きな衝撃を与えたのは、教職員の適格審査と教科書の検討削除でした。後者の「国民学校後期使用図書中ノ削除修正箇所ノ件」が各学校長あてに出されたのは21年1月であり、この指令のもとに教科書の黒塗り作業がはじめられたのですが、この異例な措置は、指令する教師も、墨を塗る児童・生徒も、占領下の悲哀をしみじみと感じたものでした。

 もとより、新教育・民主主義教育の原点ともいうべき実生活と教育の結合、生徒の自発性・創造性指向の教育活動は本校設立の趣旨でもあり、この伝達を核に、本校は、厳しい現実のなかで、真実な、平和な教育を模索し、思索し続けたのでした。

 21年1月には、はやくも学校自治会が発足しました。3月6日には恒例の展覧会・学芸会を開催し、父兄および同窓生の来校者約400人とにぎわいをみせています。

 21年度の入学者は第二本科32名であり、その入学式は4月8日に行われ、次いで、5月3日の前芝海岸全校遠足、10月16日の宮路山全校遠足、翌11月6日の市内女子中等学校音楽大会参加と、校内はしだいに正常化し、落ち着きも取りもどしてきました。

 本校を会場に、豊橋市私立中等学校聯盟が発会式をあげたのは同年11月26日であり、また、現校長・理事長高倉良爾(旧姓加藤)が高倉家を継いで本校の教職に就き、全校生徒にあいさつされたのは22年1月8日の第3学期始業式のおりであり、このことから復興は急速度に進められました。高倉教諭は、愛知県第一師範学校卒業時、栄えの思賜賞を受賞し、昭和16年3月同校卒業後は、さらに現名古屋工業大学の前身である名古屋高等工業専門学校付設工業教員養成所に進み、18年9月同校を卒業して島根県立松江工業学校修道館に奉職しましたが、翌19年4月応召され、復員後、愛知県立中川工業学校に奉職という技術畑出身の教育者です。なお、高倉教諭が高倉家に入籍するについては、鬼頭正一校長が仲介の労をとられたということです。

愛知実修女子高等学校に移行

 手探りで、真実な、平和な教育を求めてきた本校が、生徒の自発性・創造性を中心とするいきいきとした教育活動を本格的に展開したのは昭和22年以降です。これには、20年の本校の歴史が残した和洋裁教育に対する実績と、その存在を知っている数多くの人々の精神的支柱があったこと、そしてさらに、本校の復興をひたすら願って努力を続けた教職員の力強い愛校精神があったことを忘れることはできません。こうして、それぞれの最大限の力が合わせられて伝統が守られていったのです。

 22年3月、従来の「国民学校令」「中等学校令」「師範教育令」「大学令」などが廃止されて、前にもふれたように、第二の「学制」とよばれた「教育基本法」「学校教育法」がそれぞれ公布され、6・3・3・4制の実施となりました。荒れ果てた校舎、設備・教材・教具すべてにわたり不満足な状態でしたが、愛知県下では、22年度から新制中学校公立286校、私立33校、翌23年度から新制高等学校56校が歴史的出発をしました。

 22年4月から発足した新制中学校は、同年第1学年の生徒のみを義務就学とし、以後、学年進行によって24年度に全学年の義務就学が完成したのでした。その間に、23年度からの新制高等学校の発足にともない、旧制中等学校の2・3年生は新設の高等学校に中学校を併設して、希望者はその2・3年生として教育するなどの経過措置がとられました。本校でも、愛知実修女子高等学校発足に先だち新制中学校を併設しています。

 この22年度に入ると、本校の教育活動は完全に近いまでに軌道に乗りました。豊橋市公会堂において市内戦災中等学校復興後援芸能大会が催され、本校生徒が演じた校長鬼頭正一作『良寛さん』が好評を博したのは同年6月6日でした。戦後初の修学旅行(京都・奈良方面)に出発したのは同年11月13日であり、同月16日帰校しました。

 家庭科専門の新制高等学校――愛知実修女子高等学校に移行し再発足したのは23年4月からです。これを機に、同年3月31日付けで校長鬼頭正一が退任され、新たに4月1日、28歳の若さで教諭高倉良爾が新制高等学校の初代校長(通算5代目)に就任しました。以来、高倉校長は困難な私学経営の大任にあたり、自己の抱く教育的信念をもって、誠実一路、本校に新風を吹き入れました。

 新制高等学校の発足にあたり、GHQからは、教育の民主化、機会均等の理念の実現、高等学校の普及という趣旨にもとづき、3つの原則が要請されました。学区制、男女共学制および普通科と職業科をあわせた総合制の原則です。しかし、文部省としては、三原則の画一的実施は指導しませんでした。なお、私立の高等学校は、旧制の中等学校・高等女学校などの転換であったため統廃合の例はほとんどなく、この三原則の強制は受けませんでしたが、中学校と高等学校併置の型が多くみられました。前にも述べたように、旧制中等学校在学生の移行などの経過措置として、本校も新制中学校を併設したのでした。

 新制高等学校の教育課程の特色は、選択教科制と単位制にありました。すなわち、国語、社会、数学、理科、保健体育の5教科を共通必修とし、また、選択の多様性に統一的な基礎を与える単位制を採用し、85単位以上を卒業の条件と定め、そのうち38単位は前記の共通必修の教科で占めるものとしました。さらに職業課程については、当該職業に関する教科・科目を、学校が編成した計画に従って合計30単位以上履修すべきものと定められました。

 「教育が不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきであるという自覚のもとに、公正な民意により、地方の実情に即した教育行政を行うため・・・・・・」(第1条)、「教育委員会法」が公布されたのは23年7月です。そして同年10月5日、初の県教育委員選挙が実施されて愛知県教育委員会が成立し、教育の民主化・地方分権化の第一歩が踏み出されました。

 単位活動としての「自由研究」の時間として、本校生徒が社交ダンスの練習をはじめたのはこの23年です。これは、体位の向上と実社会に出てからの身だしなみとして役だつ目的からでした。

みすゞ学園を付設

 昭和23年度で特筆すべきことは、本校にPTA(Parent-Teacher Association「父母と先生の会」)が結成されたことです。

 戦後における民主的な社会教育団体として注目され、各学校単位に自主的・自発的に結成運営されたのはPTAでした。これは、22年から、文部省が手引書『父母と先生の会――教育民主化のために』を全国の学校に配布するとともに、省内に「父母と先生の会委員会」を組織してその育成に乗り出し、さらに、「父母と先生の会」参考規約を提示して設置を奨励したことから、全国的に普及するようになりました。

 本校PTA創立総会は23年5月28日に開催され、初代会長に鈴木春治氏が就任しました。以来、本校PTAは、生徒の幸福を念願し、互いにその立場を理解し尊重しあいつつ、連絡を密にして教育の効果をあげるように運営されています。

 また同年12月15日には、東海高等学校において、県下私立中学校・高等学校40余校の設置者・教職員・保護者代表が参集して愛知県私学協会の創立総会も開催されました。ちなみに、この当時は、県下の私立中学・高等学校の生徒数は約3万2千人でした。

 当時は、コース・オブ・スタディ(学習指導要領試案)、新しい教科――社会科の登場、コア・カリキュラム運動、PTAの結成などと、とまどうことが多かったが、民主教育への意気込みはすさまじいものがありました。反面、職業教育に必須な実験・実習の施設・設備が戦時中荒廃して容易に復旧できないなどの条件が重なり、6・3・3・4制による学校体系の改革に際して、これまで職業教育を施していた実業学校が単独の職業高等学校に転換することは少なく、高等学校における職業教育が不振を招く状況にありました。さらに、高等学校普通科が大学への進学の路線と考えられたことから、家庭科のみの高等学校である本校に入学を志望する者は少なく、加えて、学区制の実施は私立学校志願者を減少させ、私学の経営に大きな痛手となりました。

 その隘路を打開するため打ち出したのが洋裁専修の各種学校「みすゞ学園」の付設です。同学園は24年3月2日に設立認可を申請し、同月31日に認可されました。生徒募集要項は次のとおりでした。

 昼間部(午前中――授業、午後――茶花・料理・・・自由研究)
  本科(修業年限1カ年)約50名 但し新制中学卒業以上の女子、年齢その他制限なし
 夜間部(週・・・3日、自・・・6時、至・・・8時半)速成科 約50名

 こうして、25年の伝統を中心に、日進月歩の新思潮を取捨選択し、国家社会に寄与する健全有為な婦女子を育成すべく、学校全体が一家族――「和親、和協、和楽」のもとに努力精進する女子のみの学園を強化していきました。

附属幼児園の開園

 昭和24年度の入学者は、高等学校入学者32名(家庭科20、別科12)、みすゞ学園入学者25名、翌25年度の入学者は、高等学校入学者20名(家庭科2、別科18)、みすゞ学園入学者8名でした。

 学校制度の改革によるしわ寄せがこのように入学者減という結果をもたらしたのですが、腕をこまねいているわけにはいかず、高倉校長は、教育民主化の線にそって改善策を種々検討し、日夜心をくだいたのでした。その結果、幼稚園付設を思い立ったのです。

 戦前(昭和15年)、愛知県下には私立幼稚園58(市部37、郡部21)、公立幼稚園24(市部5、郡部19)、合計82園ありましたが、19年9月、それらの幼稚園は戦時保育所に切り替えを命じられました。その後、戦局の悪化とともに再起不能におちいった園もあり、戦後の23年に再開したのはわずか20園という状態でした。

 戦後の混乱がややおさまり、6・3・3・4制教育の実施にともなって、23年3月には文部省から幼稚園教育の指針として『保育要領』が刊行されるなど、幼児教育に対する姿勢は急速に整ってきました。同年7月には、激動する教育制度に適応し、そのなかにあって私立幼稚園教育の振興をはかるべく全国私立幼稚園連盟(のちに日本私立幼稚園連合会と改称)も結成されました。愛知県下37の私立幼稚園により愛知県私立幼稚園協会が結成されたのは25年2月です。

 「幼児に適切な環境を与え、明るく、すこやかに育てることは大人の責任であり、また国家社会に課せられた責務である。この意味において、幼稚園教育の充実振興は一日もゆるがせにできない」――幼稚園教育の重要性を認識した高倉校長は、「人づくり」という教育本来の使命達成から格別の精進をみせ、24年11月7日には長野県松本市の才能教育研究会を視察したりして、開園のための諸準備に奔走しました。

 ときに、この24年は本校創立25周年記念にあたり、10月1・2両日、その記念展覧会・バザーを開催していますが、幼稚園付設という企ては本校の歴史のひとつの「節」として格好の時期でもありました。事実、この幼稚園付設は、本校のその後の発展に大きく貢献しました。

 入園時22名により、附属幼稚園として開園したのは25年5月1日です。教育方針には「つよいこ、よいこ、なかよし、こよし」を掲げました。

 それより前、25年3月21日の「春分の日」、豊川市諏訪墓地において、約100人の参列者のもとに本校戦没学徒慰霊碑除幕式が行われました。高さ1丈6寸(約3.15メートル)、土台8尺(約2.42メートル)四方のこの慰霊碑は、3千名を擁している同窓会「みすゞ」が、昭和20年8月の豊川海軍工廠爆撃で戦没した29名の学友の霊を慰めるために遺族と協力して建設したものです。

 ところが、26年2月ごろから、29名の遺体は仮埋葬であるため発掘して各家庭でまつるべきであるという意見がおこり、同年6月5日、前記の諏訪墓地と千両墓地に眠る遺体の発掘作業が国の手で進められました。そして7月8日、本校において7周忌法要がおごそかに営まれました。以来、本校では毎年、春と秋の彼岸の日と命日の8月7日の3回、亡き生徒たちの霊を慰めています。

学校法人高倉学園と組織変更

 戦前の私立学校は、「小学校令」「中学校令」「高等女学校令」「専門学校令」「大学令」などの諸学校令にもとづいて設立されるものについては、教員資格、施設・設備、教科書編成などに関し当該学校令の規定が適用され、該当規定のない部分については「私立学校令」(明治32年8月公布)が補充的に適用される仕組みでした。

 新教育の基本を定めた「教育基本法」は、私立学校の公共的性格を明らかにするとともに、その設置者は特別の法人に限定されるべきことを定め(第6条)、また「学校教育法」においては、収支予算・決算について届け出義務を課するにとどめ、学則変更も認可制を廃して同じく届け出制に改めるなど私立学校に対する監督庁の権限を大幅に縮小し、私立学校の自主的な運営による健全な発展に期待がかけられました。そこで、私立学校の設置主体を特別の法人とする法律の制定が望まれ、昭和24年12月、「私立学校法」の公布(翌25年3月施行)となりました。

 この「私立学校法」により、私立学校の設置者は、これまでの財団法人に代えて学校法人となり、とくに法人の管理・運営について役員の定数、構成、評議員会の必置制など、「民法」には見られない基準あるいは制約が設けられました。同時に、同法第59条では、国または地方公共団体が私立学校に対し補助金を交付することができる旨を規定するなど、この私立学校法は、わが国の私立学校制度に画期的な改革を行ったものであり、その後における私立学校の発展を制度的に保障したものでした。

 財団法人総和学園を学校法人高倉学園と組織変更し、認可を得たのは昭和26年3月8日です。そして、初代理事長には高倉良爾、理事には鬼頭正一、稲垣一雄、市川為市、村松諫、監事には下山嘉一郎、村田義一がそれぞれ就任しました。

 翌4月21日には附設幼稚園設置も認可されました。これにより、前に述べた私立学校法第59条に明示された公費の助成が受けられることになり、附設幼稚園は26年度から県費助成金交付の恩恵に浴し、その後毎年、この助成金は増額され今日に至っています。あたかも、昭和26年は、幼稚園の始祖フリードリッヒ・フレーベル没後百年にあたり、各地で百年祭記念行事が催された年であり、また、同年5月には「児童憲章」が制定されるなど、幼児教育の充実振興にとってまことにさい先より年でした。

活発化する各種教育団体活動

 昭和26年9月にはサンフランシスコ講和会議がもたれて、わが国と48ヵ国との間に平和条約が調印され、アメリカとの間には日米安全保障条約が結ばれて(いずれも翌27年4月発効)、日本は、占領6ヵ年で待望の独立国の地位を回復しました。

 26・27両年は、平和条約の調印・発効を軸にして、国内の政治・経済・社会の各分野にわたり、占領下の諸施策に反省と検討が加えられた時期でもありました。とくに教育の分野にそれが要請されたのでした。「道徳教育振興方策」の発表(26年2月)、中学・高校の産業教育に対する国庫補助を盛り込んだ「産業教育振興法」の公布(同年6月)、小学校授業時間の増加や毛筆習字の復活および中学に日本歴史復活などを明記した「学習指導要領一般編(試案)」の改訂(同年7月)、「私立学校振興会法」の公布(27年3月)、「幼稚園基準」の発表(同年5月)、中央教育審議会の設置(教育刷新審議会廃止)(同年6月)、教育行政の自主性をうたい全国市区町村に教育委員会設置(同年11月)・・・・・・などは、いずれも、独立後の自主的立場からわが国の実情に即した教育改革の一環といえます。愛知県では、既設の名古屋・一宮・半田各市に続いて、県内10市204町村に教育委員会が設置され、新たに1,815人の教育委員が公選によって誕生しました。

 生徒指導(ガイダンス)および職業指導が学校教育における重要な任務として採り上げられ中学校・高等学校のなかに専任の教師(カウンセラー)を置くようになったのもこのころであり、27年度には全中学校・高等学校の約20パーセントがこの制度を採用するようになりました。

 また、独立を機に、新しい教育制度の整備に応じて戦前の民間社会教育運動の遺産を継承・発展させようとする各種の自主的団体の動きも活発になりました。26年10月には、日本ユースホステル協会が発足し、翌27年5月には第1回公民館大会が開催され、同年7月には全国地域婦人団体連絡協議会、同年10月には日本PTA全国協議会、翌11月には全国高等学校PTA協議会なども結成され、それぞれの目的と方法に従い独自の活動を展開しはじめました。全国児童文化会議が開催されたのは27年8月でした。

 愛知県私学総連合会が発足したのは27年1月です。当時、すでに県下の私立学校は、私立大学協会、私立短期大学協会、前にもふれた私学協会、私立幼稚園協会など各種学校連合会の協会を結成していましたが、それらの協会活動は、単に校種別による範囲内に限られるうらみがありました。そこで、県下私学の振興のために一本化し、団結して活動する必要が痛感され、この私学総連合会が組織されることになったのです。

幼稚園祭・幼稚園連合運動会開催

 昭和26年度の入学者は、高等学校入学者18名(家庭科・別科を含む)でしたが、入園児は35名と増加し、附設幼稚園は軌道に乗りました。同年9月20日には「愛知県私立幼稚園設置認可基準」が制定され、幼児1名につき園舎0.7坪、運動場1坪以上の施設を必要とし、本校の附設幼稚園はもとよりのこと、既設幼稚園は3年以内にこの基準に到達するよう施設を拡充することになりました。

 この26年には、愛知県私立幼稚園協会が、幼児教育の意義と重要性を社会に訴え、また関係教職員らにフレーベルの教育理念を想起させることをねらいとして幼稚園祭を開催するなど、活発な幼児教育活動を展開したこともあり、附設幼稚園も充実したプログラムを消化しています。すなわち、同年11月23日には、豊橋市内4幼稚園は、赤岩においてフレーベル百年祭記念行事として盛大な幼稚園祭を開催しました。その後、この幼稚園祭は年中行事となり、私立幼稚園として万丈の気を示すと同時に、教職員の表彰規定も定めて(26年7月)、私立幼稚園振興の一助として今日まで続けられています。

 翌27年10月19日には、附設幼稚園は第1回運動会を開催し、さらに、同年11月4日には市内幼稚園連合運動会にも参加しています。この連合運動会も、名古屋市地区、豊橋市地区、一宮市地区、津島海部地区ごとに、それぞれの地区の私立幼稚園が実施担当して毎年開催され、園児の健康教育に、また、幼児教育の成果を社会に示して今日に至っています。

 わが国の独立を記念し、全校で伊勢神宮参拝旅行を実施したのは27年5月10日でした。

初めて料理コンクールを開催

 昭和28年、国際情勢は大きく転換し、同年7月の朝鮮休戦協定調印に引き続き、翌29年4月からジュネーブで極東平和会議が開かれ、同年7月、昭和21年以来のインドシナ戦争も終わりを告げて世界に平和が訪れました。菊田一夫原作の連続ラジオドラマ「君の名は」(27年4月~29年4月)が、かわききっていた戦後の風潮にうるおいを与え、耳を傾ける人々に随喜の涙を流させたのはこの当時です。

 新しい教育理念を掲げた6・3・3・4制は、28年以降、懸案の義務教育費全額国庫負担方針の立法化を逐次実現し定着していきました。文部省が『わが国教育の現状』(教育白書)を発表したり(28年12月)、中学校に道徳倫理の単元設置および小学校高学年に地理・歴史学習を導入するため、同省が「社会科の指導計画に関する資料」を通達し(29年4月)「学校給食法」を公布(同年6月)するなど整備の充実を期したのは、教育の内容に新たな質の展開が要求されてきたからでした。

 なお、この両年は、教育の政治的中立をめぐって議論が沸騰した時期でもありました。これは当時、日本教職員組合傘下教師たちの、教育に関する種々の政治的動きがあったからです。これを契機に、29年1月、中央教育審議会が教育の中立性維持に関して答申し、「教育公務員特例法一部改正案」「義務教育諸学校における教育の政治的中立の確保に関する臨時措置法案」のいわゆる教育二法案が閣議で決定され、同年6月の公布となったのでした。

 28年の高等学校入学者は15名でした。同年9月25日には台風13号が襲来し、三河湾の幡豆海岸より上陸して長野地方に抜けました。このため、豊橋地方の海岸一帯には高潮が押し寄せ、家屋に浸水し田畑が冠水して甚大な被害を受けました。が、本校は、幸い板塀の破損程度ですみました。

 「産業教育振興法」による国庫補助(6万円)の内示に接したのは同年10月11日です。そこで、あとで述べるように、附設幼稚園舎の新築にともない、これまで幼稚園が使用していた2教室があくので、そこに家庭科専門の設備を充実させることにしました。

 創立30周年を迎えた昭和29年で特記すべきことは、6月18日、初めて料理コンクールを開催したことです。3年生の各級は、それぞれ課題(共通)の目的に適した献立に従い、実習および栄養価の計算、料理方法の発表を行いました。第2回料理コンクールは、2年生を中心に、同年12月18日に開催しています。こうして生徒たちは、家庭建設者としての、また人間としての技能と知識の会得習熟に励んだのでした。

幼稚園舎落成

 昭和28年度、附設幼稚園の入園時は100名でした。

 待望の河合楽器製堅A型ピアノ(17万円)がPTAから幼稚園に寄贈されたのは同年2月13日です。続いて、オルガンも寄贈されました。このオルガン寄贈については、「美しい子弟愛の物語」として、当時、新聞にも報道されました。これは、婚家から亡父の法要のため10年ぶりで帰郷した山本よし子(旧姓大場・高等実家昭和11年3月卒業)が、たまたま母校を訪れ、附設幼稚園の園児たちがオルガンを欲しがっているのを聞き、愛らしい後輩のために、同年5月15日の「母の日」を記念して自宅で使用していたものを贈り届けたのです。

 その後、「私立幼稚園設置認可基準」に達するため施設の拡充に力を注ぎました。しかし、金融情勢は厳しく、私立幼稚園に対する融資の道は堅く閉ざされていました。そこで、私学振興室からの借入によって充当することにし、28年10月8日、工費100万円、岡崎市の中央土木(株)に依頼して園舎の建設に着手しました。

 上棟式は同年11月28日に催され、翌29年1月19日、木造平屋建て園舎165平方メートル(教室3、遊戯場、職員室、便所)が竣工しました。

 29年度から附設幼稚園は、特別部として小学生学習教室を開設し、当初は30名が入部しています。

 「産業豊橋を広く紹介宣伝するとともに、内外物産の粋を集め、産業・経済の振興促進と、科学・文化の向上をはかる」ことを趣旨として、同年3月20日から会期52日間にわたり豊橋産業文化大博覧会が開催されました。前年2月のNHKテレビ本放送に続いて、民間放送テレビも本放送を開始した矢先であり、観覧者の多くはテレビ館に吸い寄せられていきました。園児35名がこのテレビ館に出演したのは4月22日です。

人間教育は機械化できない・・・・・・

 戦争が終わって10年の歳月が流れました。

 対外関係では、昭和30年6月、日ソの国交回復交渉が行われ、また同年11月、日米間には日米原子力協定が調印されて、日本にも原子力時代が訪れました。そして、翌31年10月には日ソ共同宣言ならびに通商議定書の調印となり、11年ぶりに両国の国交が回復し、同年12月には日本の国連加盟も実現しました。

 一方、日本経済も、29年はわが国産業にとって苦難の年でした。同年春ごろから西欧を中心に景気が好転し、この年の後半には好景気の波が全世界の工業国に及び、30年は世界的な工業ブームの年となり、のちの高度成長へのスタートを切る準備の年ともなりました。31年度の『経済白書』が「もはや戦後ではない」というキャッチフレーズを残したことは有名ですが、30年ごろには日本経済はほぼ戦前の水準を回復し、いわゆる神武景気の幕あけとなり、そして、家庭電化ブームの招来となったのでした。 

 ところで、大量生産の技術が発達し、大量消費が可能になったということは、家庭教育の変化より以前に家庭そのものを変質させ、家庭の人間的な交流を阻害してきました。つまり、日本経済の成長発展により物質的な豊かさをもたらし、国民の生活を向上させ、児童・生徒の成長をうながしましたが、同時に、それからくるゆがみもあらわれ、児童・生徒のすこやかな成長をはばむ危険がしだいに増大してきたのです。そのなかで、日本の発展に大きな役割を果たしてきた教育が、児童・生徒そのものの、人間性を真に守り育てるものであるか否かがあらためて問われてきました。

 人間教育は機械化できない。ここに、いっそう人間回復をはかることが強調されなければならない時代となりました。情緒の安定性のないところに創造性は生まれてこないという声が強く叫ばれだしてきたのです。小・中学校の改訂社会科の内容についての決定(30年2月)、「日本学校給食会法」の公布(同年8月)、不就学・長期欠席児童生徒対策要綱の発表(同年10月)、教科書法案の国会提出(廃案となる)(31年3月)、義務制が見送られていた養護学校の設置を促進するための「公立養護学校整備特別措置法」の公布(同年6月)、任命制を採用した新教育委員会の発足(同年10月)、「大学設置基準」の制定(同月)、「幼稚園設置基準」の制定(同年12月)、「各種学校規程」の制定(同月)・・・・・・と、教育内容、教科書・教材・教具の整備、特殊教育の振興に関する施策などが総合的に進められてきたのは、こうした環境の矛盾に対処するための教育施策でした。

 高等学校進学についての小学区制撤廃が愛知県内で実施に移されたのはこの31年です。また、文部省が戦後初の全国校長研究協議会を開催したのは31年10月16日であり、本校の高倉校長も同協議会に出席しています。

普通科を設置

 生涯を通しての自己完成をめざした学習、心の面の教育が強く望まれてきたこの時期、本校は活発な動きを示しました。

 まず、昭和30年2月7日には年中行事である針供養を行いました。講堂にしつらえた祭壇には、1ヵ年役目を果たした針が飾られ、りんごやみかん、だいこんやにんじんなど、色とりどりの供え物をして全生徒が感謝をささげました。式後、2,000余本が針塚に埋められ、針供養の俳句会などを催しました。

 30年度の入学者も17名にとどまりました。同年7月26日~28日には、生徒有志14名が職員4名とともに江比間海岸へサイクリングし、夏期鍛練を実施しています。生徒会機関誌『みすゞ』を学校名とゞ『実修』に改題したのは同年3月です。

 歴代校長の遺訓を継承し、家庭科専門の高等学校として歩んできましたが、社会の進運と文化の向上は日々新たなものがあり、女子の大学進学者が目だち、封建色濃厚な豊橋地方でも女子の一般高等教育の重要性が認識されるようになってきました。

 そこで、認可を得て31年度から普通科の設置に踏み切り、建学の精神を基調に、上級学校進学、あるいは就職面にと間口を広げた学園に改めました。同年3月4日、東三河地方高等学校のトップを切って81名の受験生を対象に入学試験を行いました。この普通科の設置により、31年度の入学者は44名(普通科10、家庭科34)となりました。

 同年6月6日、東三書道連盟(26年結成)主催競書会に本校生徒14名が入選し、うち3名は佳作となりました。これを機に、本校生徒の書道熱はいちだんと高まりました。

 同年10月19日、豊橋市公会堂において豊橋市制施行50周年記念式典が催され、30年以上教育関係勤続者として前理事長高倉すゞ舎監が表彰されました。さぞかし、過ぎし30年の労苦の思い出が浮かび、そして、ようやく報われた思いも胸を去来したことでしょう。

 表彰といえば、同月29日、愛知県私学祭式典当日においても、15年勤続者として高倉久美子教諭、優良模範生徒として荻野利子が表彰を受け、また、PTA会長巌谷二三男氏には保護者感謝状が贈られています。なお、高倉すゞ舎監は、翌32年10月24日に催された私学祭式典の際にも30年勤続者として表彰されました。

 ここで、愛知県私学祭(大会)についてふれると、「私立学校法」が公布されたのは24年12月15日ですが、この公布を待ちきれず、私学教職員・生徒は大々的に祝意を表することになり、全国に先駆けて同年12月5日、名古屋市中区大須の大宝劇場を会場に、愛知県としては初めての私学関係者の大会合を催しました。この会合が発端となり、私学の伸展と高揚をはかるとともに、私学人相互の親交を深めるために年々大会を開くことになったのです。これが私学祭です。

 さて、生徒数が増加したことから、31年8月、PTA会員および卒業生約3千名の支援により、創立当初からの校舎の増改築(延べ427.7平方メートル)に着手し、同年11月に竣工しました。同月23・24両日、新装なった校舎に多数来校者を迎えて盛大な記念展覧会を開催しました。

愛と実と・・・・・・

 昭和30年ごろになると、幼児教育に対する社会の要望も高まり、就園児の増加もいちじるしいことから、幼稚園の新設が相次ぐようになりました。

 附設幼稚園に目を転じると、30年4月5日の入園式には153名(年長2組、年中2組)、翌31年度の入園式にも同じく153名(年長2組、年中2組)の園児数となり、新築の園舎の内外は活気があふれていました。

 30年10月15日の運動会に続いて、翌11月5日には市内幼稚園連合運動会が開催され、11園1,600名が参加し、歓声がどよめき盛大でした。

 園児のためのスクールバスを運転したのは31年4月6日からです。翌5月4日、岡崎公園への遠足には131名の園児が参加しました。また、同年11月10・11両日には豊橋市公会堂において東三私立幼稚園合同展覧会も催され、約1万人の来観者を迎え、にぎわいを呈しました。

 ブルーの下地に白線を浮かした校章は「愛」と「実」と「女」の文字を図案化し、「和親」「和協」「和楽」の3つの基礎円をあらわしています。31年度からは体育部も設けられ、卓球部、ソフト部、排球部が発足し、こうして、「和」を中心に、家庭的なふんいきで明るい学園の建設をめざし、本校は前進を続けました。

やがて来ん幸ある船出――豊橋女子高等学校と改称――

打ち出される教育課程の大改訂

 昭和32年8月、ソ連が大陸間弾道ロケットの実験に、さらに10月、人工衛星スプートニク1号の打上げに成功し、アメリカも翌33年1月、人工衛星エクスプローラ1号打上げに成功してから、宇宙時代の開幕となりました。日本でも32年8月、初めて原子の火がともり、科学技術躍進時代への第一歩を踏み出すことになりました。が、一方、国内では、33年6月、第2次岸内閣成立のころから、教職員の勤務評定をめぐって、文部省と日本教職員組合(日教組)の対立がしだいに激化し、同年9月には全国闘争にまで発展しました。

 この勤務評定をめぐる教育問題が国内政治の重要な争点となったのは、任命制による教育委員会が31年10月に発足した直後、愛媛県教育委員会がその初仕事として勤務評定の実施を決定し、これに同県教組が反対を表明したことがそもそもの発端でした。

 文部省は、この日教組との対立をふまえ、小・中学校教頭を職制化し職務内容を規定(30年12月)、小・中学校「道徳」の実施要綱(4月から週1時間)の通達(33年3月)、小・中学校学習指導要領改訂案の発表(同年7月)など、学校管理体制確立のための諸施策ならびに教育課程の大改訂を次々打ち出していきました。32年11月には中央教育審議会の「科学技術教育の振興方策について」の答申、翌12月には理科教育審議会による「小・中・高等学校における理科教育の振興について」の建議、さらに、33年7月には中央教育審議会の「教員養成制度の改善方策について」の答申などが出されています。

豊橋女子高等学校と改称

 そうしたなかでも昭和32年の春はめぐってきて、4月8日の入学式には49名(普通科16、家庭科22、別科11)の新入生を迎え、附設幼稚園もまた156名(青組51、白組50、黄組28、桃組27)の園児により、同月5日、入園式を行い、その運営もひとつのルールに乗って円滑に動くようになりました。

 この32年には、第2次校舎増築を計画し、内部体制のいっそうの整備に力を注いでいます。すなわち、旧豊橋地方裁判所の建物払下げを財務局から受けるとともに、「産業教育振興法」による国庫補助(34万円)および県融資(70万円)を受け、同年7月30日から、前年に引き続き新城市の近藤工務店に依頼して家庭科教室2(223.57平方メートル)、附設幼稚園遊戯室(95.7平方メートル)の増築工事に着手、同年11月1日に竣工しました。校旗を制定したのも同日です。なお、それに先だち同年3月、みすゞ学園を廃校しました。

 菊花咲き薫る11月22日はまれにみる晴天でした。かつて本校の将来を予言して書かれた元国立国会図書館長・国務大臣金森徳次郎氏の「無限向上」の扁額が職員室の正面にかけられていますが、その墨痕がひときわあざやかに見えたこの日、10時10分から催した校名改称記念・校舎増築記念式典には、来賓として愛知県知事代理・学事課次長片山五郎、豊橋市長大野佐長、県議会議員河合睦郎(現豊橋市長)、豊橋市議会議長彦坂只一、同副議長天野道治各氏をはじめ、各市町村教育長、各小・中学校校長、各高等学校校長など教育関係者百数十人を迎え感激に終始しました。

 高倉校長は、式辞のなかで、「・・・・・・人工衛星が地球を回る科学的進歩の激浪のなかに、教育の道は、地道に百年先の社会の建設を目標に、一歩一歩大地にしっかり足のついた歩みを進めねばならないと存じます。校名変更に際し多数の方からお祝辞を頂きましたうちに『永続は力なり』の言葉もありました。私はこの機会に、本校全職員とともに、豊橋女子高等学校ならびに附設幼稚園が、本地方の皆さまに末永く愛され、不完全な現況を逐次改善し、より一層内容の充実した学園にしていくことを、また数の多きをよしとせず、真に和の校風をもった師弟同行の温かい学園とすることをお誓いする次第であります」と述べて参列者の共感をよび、また全生徒は、高倉校長の意を体し、名実ともにそなわった私学の生徒であるとの矜持をもって、「やがて来ん幸ある船出」のために努力しようと深く胸に刻み込んだのでした。引き続き、翌23日には、終日、生徒作品の展覧会・バザーを開催しました。

 なお、戦時下、中島飛行機(株)半田製作所山方工場で勤労動員中、19年12月7日の東南海地震により命を散らした23名の女子学徒(うち本校生徒3名)の霊を慰める観音像が豊橋市吉屋町の龍拈寺境内に、市当局や市民の善意もあってできあがったのは32年7月2日でした。そして同月14日、関係者多数が集まり開眼供養が催されました。当日、当時の同級生たちは引き続き追悼会を催し、亡き同級生の霊を慰めています。

曳杖会主催席上揮毫大会で連続優勝

 昭和33年度の入学者は81名(普通科25、家庭科50、別科6)となり、全校生徒数は156名となりました。一方、本校とともに発展の一途をたどる附設幼稚園の同年度入園時の申込みは2月末に定員を突破し、4月5日には新入園児102名、在籍園児51名、合計153名で入園式を行いました。

 本校生徒の勉励の成果をみると、昭和30年以来、家庭科の教材としてろうけつ染めを実習していますが、30年、31年と二度にわたり、生徒作品は全国染物展に入選しています。32年にも優秀作品が多数できあがり、同年11月に開催した展覧会・バザーに出品する一方、前記の全国染物展に出品し入選しました。

 学校当局はいうまでもなく、教職員、生徒が一体となり、日夜習字の研修に励んだかいあって、松葉小学校で催された曳杖会主催第17回席上揮毫大会において団体初優勝をとげ、優勝旗を授与されたのは33年1月27日です。

 この曳杖会というのは、芸術院会員・文化功労者・書家鈴木翠軒氏を審査長とする権威ある書道競筆会です。同年9月の第18回大会にも101名が入賞し、団体の部でも、2位の豊川高等学校を大きく抜いて連続優勝を飾りました。さらに、翌34年1月の第19回大会でも連続3回団体優勝を達成し、優勝旗を永年獲得しました。

 本校の毛筆習字がこのころ盛んになったのは、全校一斉競書など独特の指導法を編み出した伝統に根ざし、また生徒の熱意もさることながら、書道教師である中野真一郎の努力によるところ大です。中野先生は、29年4月着任以来、「だれでもやればできる」と常に生徒を励まし、週1時間の正規授業のほか、休日や放課後などを利用して懇切に指導し、徐々に全校生徒が書道に興味を抱くようにしむけました。しかも、選手を養成するのでなく、学校全体のレベルを向上させることに重点をおいたのでした。

 生徒会機関誌『実修』を、「萌え出づる」ことを願って『もえぎ』と改題したのは33年1月です。また、そのころ、生徒会長から「私どもの指針に・・・・・・」と知名の数氏に手紙で揮毫を所望したのに対し、元内閣総理大臣鳩山一郎氏は「友愛」、元文部大臣天野貞祐氏は「敬以和」と書かれて、まもなく贈り届けられました。

「人づくり論」の登場

 高度成長期にあったわが国経済は、一時、不況を迎えましたが、昭和33年後半から景気はふたたび上昇に転じ、以後、いわゆる岩戸景気が36年まで続きました。一方、34年4月には皇太子のご成婚という慶事もあり、さらに、翌5月27日には東京の国立競技場に五輪旗が掲揚されました。これは、5年後にオリンピック大会を東京で開催することをIOC総会が決定したからです。

 この年の暗いニュースには、台風15号による被害があります。戦後の天災は「伊勢湾台風」によって代表されるといわれるほどで、9月26日夕刻から襲来した台風15号の猛威は、中部地方に甚大な被害をもたらし(死者5,041人、被害家屋57万戸)、豊橋地方では全壊家屋586戸、半壊家屋1,593戸、流出家屋11戸、床上・床下浸水家屋438戸に及びました。

 35年に入ると、1月には日米新安全保障条約および行政協定改定の日米交渉が妥結し調印されました。この新安保条約の批准国会に際し反対運動が激しくなり、この年は空前の政治的激動が続きました。同年6月、自然承認をまって新安保条約は発効しましたが、7月には岸内閣が総辞職し、代わって第1次池田内閣が成立しました。

 この両年、とりわけ34年は、4月に「社会教育法の一部改正案」が国会に提出されて成立し、社会教育の分野でもひとつの転換期を迎えた時期でした。この改正により、従来、市町村において任意設置となっていた社会教育主事を必置制にするなど、社会教育行政をよりいっそう能率的に、また円滑に行うための積極的な規定が設けられ、地方における社会教育の振興が促進されることになりました。

 メートル法が実施されたのは34年1月、また、文部省が初の教育白書『わが国の教育水準』を発表したのは同年10月です。同省が高等学校通信教育のためのテレビ放送を開始したのは35年6月でした。

 翌36年は、国際的には「宇宙時代」がクローズアップされた年です。国内ではこの年、高度成長・所得倍増政策を掲げて登場した池田内閣により金融引締め・設備投資抑制などの経済政策調整が行われました。37年10月には、キューバをめぐる核戦争の危機が全世界の注目を集めました。なお国内的には、同月、貿易自由化を迎え、EEC、八条国移行問題など、その前途には楽観を許されない諸問題が横たわっていました。また、この37年は、国民生活水準と消費経済とのギャップ拡大が目だってきた反面、レジャーブームが盛んになった年でもあります。堀江謙一青年が小型ヨットで日本で初めて単身太平洋を横断し、世界に名をはせたのはこの年8月でした。

 産業の高度化を支える技術水準の向上のために、その主体である人的能力の開発――「人づくり論」が叫ばれてきたのは36年からです。同年9月に文部省が科学技術系学生増募計画を発表したのは、「能力・適性・進路」に応じる教育制度の整備をめざしたものでした。同省が中学2・3年生全員を対象に全国一斉学力テストを実施したのは10月26日です。同年4、5月ごろからは、「プログラム学習」あるいは「学習のオートメーション化」「ティーチングマシン」などが唱導されるようになりました。

 37年11月には、文部省から『日本の成長と教育――教育の展開と経済の発達――』の教育白書が出されています。この白書は、国民所得倍増計画との関連で教育投資論、教育計画論を最初に本格的に論じたものでした。

 このように、近代経済学の理論である教育投資論などを根拠として、教育行政計画が経済成長計画との関連のなかで活発に論じられ、あるいは、「マン・パワー・ポリシー」と呼ばれる教育政策の登場となったのがこの両年の目だった現象です。反面、核家族化や子どもの数の減少などによる家庭生活のあり方の変化、婦人生活の変化、加えて、社会全般の価値観の混乱などから、家庭における教育機能のゆがみも生まれ、このため、家庭教育の関心が高まってきました。大学の文学部における女子学生の比率が全国で37パーセントに達したのはこの37年でした。

台風15号の被害大

 昭和34年度の入学者は119名(普通科41、家庭科78)でした。附設幼稚園は4月6日、122名(青組35、黄組32、白組47、赤組8)で入園式を行いました。

 迎えてこの昭和34年は、創立35周年・附設幼稚園創立10年にあたっていました。そこで、これを契機に、校地拡張、校舎増築、生徒増員など画期的な飛躍発展をめざしました。

 愛知県私学振興資金融資を施設・設備拡充資金とし、まず34年6月1日、運動場として畑地(約1,716平方メートル)の買入れ契約を結びました(同年12月25日登記完了)。次いで、同年8月8日には地鎮祭を催し、11月中旬完成を目途に、教室4、職員室1、作法室1、玄関、便所などの改増築工事(延べ約537.9平方メートル)に着手しました。創立当初の作法室、旧割烹室を売却し、取壊しがはじまったのは8月24日であり、県立豊橋商業高校校舎(旧工兵隊兵舎)の払下げ(24万3,515円)が決定したのは同月27日です。

 台風15号(伊勢湾台風)が襲来したのは翌9月26日、土曜日でした。午前中から台風接近の警報があったので、生徒・園児を早めに下校させました。午後5時ごろからしだいに風雨が強くなり、紀伊半島に上陸したのち東進し、午後9時30分ごろ名古屋市西方30キロの地点を通過しました。最大瞬間風速45.7メートル、超大型ではないが、強烈な風雨に満潮が重なったため災害は超大型となりました。

 この台風15号は、その後、高山を経て日本海に抜けましたが、校舎の屋根瓦約400枚、寄宿舎の屋根瓦約50枚を損壊し、コンクリート塀倒壊(約38メートル)、窓ガラス破損約300枚、便所・物置・自転車置場飛散という甚大な被害を受けました。

 台風15号の残したつめあとは意外に深く、交通機関の麻痺なども影響して、授業が平常に復したのは9月30日でした。続いて、10月3日には教職員が被災生徒15名の家庭を見舞いました。その後、台風災害義援金品を教職員・生徒から募集したところ、衣類では、男物23点、婦人物21点、男児物8点、女児物12点と日用雑貨数点、そして7,027円の現金が集まりました。それらの義援金品は、10月8日、名古屋地方へ発送しました。さらに生徒たちは、同月16日の午前50名、午後50名と2回にわたり豊橋市内の台風被災地救援物資処理奉仕に出動しています。

 校舎増築工事は、施工者の不手ぎわもあって遅々として進展しない、それにこの台風15号が重なり、竣工は大幅に遅延しました。上棟式を行ったのは同年11月5日でした。このため、落成式を兼ねた創立30周年・附設幼稚園創立10年記念式典を催す予定でしたが、落成式とは別個に行うことにし、それも翌年に延期することを決定しました。

 このほか、昭和34年で特記すべきことは、7月29日から2泊3日、田原西部小学校を借用し、白谷海岸において参加生徒35名により臨海学校を開設したことです。翌35年度も、同じく参加生徒35名により、8月4~6日まで同地区で臨海学校を開設しています。その後、この臨海学校は年中行事となりました。

創立35周年を祝う

 新校舎が九分どおり落成をみた昭和35年2月25日、愛知県知事代理、豊橋市長大野佐長、豊橋市議会議長加藤甚八、同副議長大須賀弥助、県議会議員水上義雄各氏をはじめ、東三地方各中学・高等学校校長ならびに私学関係者、PTA役員ら約100人の来賓を招き、創立35周年・附設幼稚園創立10年記念式典を盛大に催しました。そして当日、次の教職員を永年勤続者として表彰しました。

 33年 高倉すゞ
 19年 高倉久美子
 13年 鈴木定雄
  7年 竹田宗郁
 同  新井秀子
 同  伊藤八千代
 6.5年 河合久子
  6年 中野真一郎

 なお、36年11月29日に催された第10回幼稚園祭において、前記伊藤八千代教諭は10年以上勤続者として表彰されています。

 35年度の入学者は79名(普通科31、家庭科48)、一方、新入園児は86名を数え、この年以降は、内部整備と教育内容を充実させるべくいちだんと力を注ぎました。そして、健全な次代の日本婦人の育成をモットーに、美しい環境のなかで、教師と生徒の人格が直接ふれ合える教育を通じて美しい人柄を養成することをめざしあゆみ続けました。

拡充計画の推進と入学者の激増

 昭和36年度の入学者は32名(普通科12、家庭科20)でしたが、翌37年度の入学者は160名(普通科A41、同科B40、家庭科C39、同科D40)と昭和20年以来の最多数となり、4月6日午前10時から父兄同伴で催した入学式は、活気にあふれたものがありました。一方、36年度附設幼稚園の入園式は、4月4日、164名(緑組41、白組40、黄組34、桃組34、赤組15)で行いましたが、翌37年は新入園児101名と増加し、合計201名となりました。

 36年度に入ると、さらに校地(約4,950平方メートル)の拡張と12教室増設などの学校拡充計画が推進されました。そして、施設拡充資金は私立学校振興会融資、愛知県私学振興資金融資を充当することにしましたが、同年6月12日、PTA役員会が開催されて本校建設委員会発足を議決し、同委員会においても拡充資金の捻出が検討されました。その結果同年10月16日、PTA総会の議を経た「施設拡充資金1口1万5千円を在校生から無利子3ヵ年借用」が同委員会から発表され、在校生に依頼することになりました。時を経ずして同窓会「みすゞ会」も母校施設拡充資金募集(目標額300万円・1口2千円)に立ち上がり、37年1月から募金を開始しました。

 校地拡張(約2,726平方メートル)買収契約が結ばれたのは、36年11月13日です。さらに、38年8月にも校地拡張(約1,983平方メートル)が行われています。

 37年8月18日には鉄筋コンクリート3階建て校舎(12教室)の第1期工事(9教室)地鎮祭を催し、同年9月7日、いよいよ建設工事に着手しました。

 ところで、本校の自慢のひとつである書道は、曳杖会主催第17回席上揮毫大会(昭和33年1月)以降、第46回大会(48年1月)まで連続団体優勝しているほか、東三書道連盟主催競書会にも、第8回(34年)から第22回(48年)まで連続団体優勝をとげ、また、競書界社主催新年書初展にも、第6回(34年1月)から第20回(48年1月)まで同じく連続団体優勝を達成しており、いまや東海唯一の書道王国となりました。なお35年11月22日には、曳杖会主催席上揮毫大会6連勝を祝し、古今名士筆蹟展を兼ね生徒の作品展覧会を開催しました。その祝賀式には豊橋市長河合睦郎氏ほか来賓40人が参列しました。

 新校舎建設の槌音は大空に響き、ときには騒がしく感じることもありましたが、しかしそれはうれしい悲鳴でもありました。この騒音のなかで勉学に精進する生徒たちの顔は明るく、惜しみなく一丸となって支援・協力した本校関係者の誠意の結実の日が待たれたのでした。

家庭科技術検定について

 すべてにわたり本校の本格的な基礎が築かれ、さらに発展への足がかりをえ、大きくはばたこうとしていたとき、悲しみがひとつ訪れました。それは昭和37年4月18日午前10時、学校法人高倉学園監事下山嘉一郎が永眠したことです。享年69歳。いうまでもなく故人は本校の前身である愛知和洋裁縫女学校の初代校長でした。創立に情熱を傾け、退任後は、陰の人となって本校の運営に力を尽くされました。その死に臨み関係者一同は、故人の足跡の大きさ、偉大さをあらためて認識したのでした。

 名古屋市公会堂と三浦学園を会場とし、全国から3,800余名が参加して第9回全国私立幼稚園研修会が開催されたのは37年7月26・27両日でした。本園からも高倉園長ほか教職員が参加しています。

 正しい幼児教育を推進するためには幼稚園だけがいかに努力しても完成できず、幼児教育に対する父兄の理解と協力がなければならないことから、愛知県下私立幼稚園のPTAを結集してその組織化をはかることが要請され、愛知県私立幼稚園協会(以下「愛知私幼』と略す)もこの結成に努力した結果、同年11月19日、愛知県PTA連合協議会が発足することになりました。ちなみに、高倉校長は、昭和31・32・38・39・43・44年度に愛知私幼副会長に就任しています。

 このほか、37年で特筆すべき事項は、同年10月29日の愛知県私学祭式典の際、35年勤務者として高倉すゞ前理事長、15年勤続者として高倉良爾校長、中村要教諭、保護者代表としてPTA会長渡辺茂氏、優良模範生徒として彦坂佳子が表彰されたことです。さらに、高倉校長には10年以上愛知県私学協会役員就任感謝状が贈られました。

 目を家庭科技術検定に転じてみると、全国高等学校校長協会主催で毎年実施していることの家庭科技術検定(一級)の第1次筆記試験が38年1月19日に行われ、本校生徒は、食物の部で4名、和裁の部で5名、洋裁の部で5名、合格しました。そして、同月30日午後1時から、本校において食物の部の技術検定が行われ、豊橋市内では、前記の本校生徒4名と西加茂の猿投農林高校旭分校の生徒1名が日ごろ習得した実力を発揮しました。なお、この一級検定は全国同じ課題で実施され、愛知県下では7校約50人が本校と瑞稜高等学校の2会場において受験したのでした。

 こうして、この家庭科技術検定の一級では、本校生徒は毎年10名以上合格しています。38年から41年までの合格者数をあげつと次のとおりです。

家庭科技術検定合格者数

和裁一級和裁二級洋裁一級洋裁二級食物一級食物二級
38年827541313
39年915618
40年1045629823
41年14520683

 家庭科に特色をもつ本校は、また保育コースでは、附設幼稚園で生きた保育実習もでき、毎年保母試験に合格しています。さらにスポーツでは、ソフトボールが県下私立高等学校のベスト4に入っています。

昭和38・9年の教育施策

 昭和38年は、モスクワで米英ソ三国による部分的核実験停止条約が調印され(8月)、世界的に平和共存ムードを高めた年でした。わが国においても、この年は共産圏諸国との通商あるいは文化面における接触など共存ムードが広がっています。が、同年11月、ケネディ米大統領がテキサス州ダラスで凶弾に倒れたことは、世界平和にとっての衝撃的な損失でした。

 翌39年に入ると、ベトナム情勢が険悪化しエスカレートする一方でした。国内でも、10月に池田首相の病気辞任、11月の佐藤内閣の出現と政局は揺れ動きました。が、また、この年は第18回オリンピック東京大会開催という国をあげての大行事があり、国内は活気にあふれたのでした。この年10月10日から24日まで、アジアで初めて開かれたこのオリンピックには参加94ヵ国5,541人の選手が参加しました。東海道新幹線が開通したのは10月1日です。

 38・39両年における教育の分野にスポットをあてると、まず38年には、1月、経済審議会が「経済発展における人的能力開発の課題と対策」について答申して教育投資論を展開し、続いて同月、人的能力開発政策にこたえるため能力開発研究所が発足しています。そして能研は、当面の計画として大学進学志望者に対し全国一斉学力テストを実施することを決定しました。高等学校が「新学習指導要領」による教育課程を全面実施したのは同年4月からです。

 また、中央教育審議会が、後期中等教育の改善策について文部大臣から諮問を受け、そのなかで、とくに「期待される人間像」について検討を求められたのはこの年の5月です。同年12月には「義務教育諸学校の教科用図書の無償措置に関する法律」が成立し、小・中学校の子どもの教科書は国が全額負担することになりました。なお社会教育の面では、38年3月、全国PTA協会の発会式が行われたことが目だちます。この協会は従来の日本PTA全国協議会のような連合会とちがって財団法人であり、したがって、その業務はPTA活動そのものでなく、PTA活動の助成を主とするものでした。厚生省が初の『児童福祉白書』を発表したのはこの年5月です。

 39年8月には、文部省から教育白書『わが国の高等教育――戦後における高等教育の歩み――』が刊行され、続いて同月、同省から幼稚園教育の振興について(人口1万人に1幼稚園の配置など)の通達が出されました。また、健全な青少年を育てるには家庭教育を充実させる必要があるとして、39年度からは新たに家庭学級(あるいは両親学校)を全国の小学校ごとに設けることになりました。こうして、新しい時代に対処しようと、教育課程の内容充実がはかられています。

鉄筋の3階建て校・園舎落成

 昭和38年度の入学者は、予想された250~300名を超えて、328名(普通科3学級187、家庭科3学級141)となり、新校舎の建設に着手した先見を裏付けました。さらに翌39年の入学者は389名(普通科4学級234、家庭科3学級155)となりました。

 施工者(株)藤原工務店、設計者竹尾一級建築士事務所により進められていた第1期増築工事である鉄筋コンクリート3階建て(一部5階建て・延べ約963.93平方メートル)の校舎(9教室)は、総工費2,380万円を要して38年2月に竣工をみました。新装なった新校舎屋上においてその竣工式を催したのは同年4月25日です。当日午前10時から開かれた式典には約80人の来賓を迎え、在校生を含めて約700人が参列しました。高倉校長は、式辞のあと経過報告を行い、工事を請け負った(株)藤原工務店と竹尾一級建築士事務所に感謝状を贈りました。そして、式典終了後は祝宴に移り、午後も教職員・PTA役員の祝宴と続きました。

 東海道本線からもそのスマートな、しかも堂々たる学舎まなびやの全景がながめられるようになりました。もえぎ色に配するに、そそりたつ茶褐色の塔屋は、本校の限りない向上を象徴しているかのようでした。明るい教室、ベランダをもった校舎、まさに女子学園にふさわしい外観・体裁でした。

 同年12月11日、さらに第2期工事である3教室(約247.5平方メートル)の増築工事に着手しました。この工事は翌39年3月20日に竣工しました。

 創立40周年・附設幼稚園創立15年の年輪を刻んだ39年という年は、文字どおり隆々発展してやまない本校の姿が誇示され、栄光を与えた年ともなりました。すなわち、附設幼稚園も、創立15年を契機に鉄筋コンクリート3階建て(延べ約831.2平方メートル)の新園舎を建築することにし、同年6月16日地鎮祭、8月25日上棟式を催し、11月20日完成予定で(株)原田工務店に依頼して建築工事に着手しました。

 1・2階に普通教室7(収容人員1教室40名)、3階に講堂と遊戯室を設けた新園舎が総工費1,800万円を要して竣工したのは同年12月10日でした。なお、旧園舎はそのまま残して高等学校の特別室として使用することにしました。

 この新園舎新築により、一応、校・園舎の増築工事は完了し、あとは体育館と特別室の増改築となりました。

創立40周年記念式典

 豊橋洗心書道会から、書道に対する学校長の理解と書道担任の中野真一郎先生の書道振興に対する功績に対し、学校として初めて表彰されたのは昭和38年9月でした。また、前にふれた能力開発研究所の第2回テスト(能研テスト)に生徒30名が受験したのは翌39年7月4日です。

 第18回オリンピック東京大会が開催されたこの39年、アテネから空輸された聖火は南北4つのコースにわかれ、沿道の観衆の歓声のなかを開催地東京をめざして進みましたが、その聖火が豊橋市を通過したのは10月3日午後2時半ごろでした。そして、10月10日午後2時から国立競技場において開催されたオリンピック開会式には、愛知県私立高等学校生徒代表として本校生徒会会長那須田範子が参列しました。

 快晴に恵まれた40年1月23日、豊橋市長河合睦郎、豊橋市議会議長木和田為作、県議会議員片山理、同山本一二、同田中積三、同早瀬一郎各氏はじめ各界の来賓200余名を迎え、創立40周年・附設幼稚園創立15年・幼稚園舎新築披露記念式典を盛大に催し、教職員の永年勤続者表彰を行いました。表彰者は次のとおりです。

 30年以上 高倉すゞ
 20年以上 高倉久美子
 10年以上 鈴木定雄、竹田宗郁、新井秀子、中野真一郎
  5年以上 中村要、岡本炎治、長島或子、清水定平、平岩ふみ、鳥居畯子、平山憲子

 なお、創立40周年記念として、PTAから図書室用机10脚が寄贈されたのは同年3月13日でした。

 39年度卒業式は40年3月1日に挙行し、153名(普通科80、家庭科73)が巣立ちました。また、附設幼稚園の卒園式は同月22日に行われ、113名を送り出しました。

中教審、「期待される人間像」中間草案発表

 昭和40年9月、ベトナム戦争に新たにカシミール紛争が加わってアジアはけわしい情勢を続け、翌41年の世界も、ベトナム戦争と中華人民共和国の文化大革命の進展と、アジアに明け、アジアに暮れました。

 国内では、40年は、佐藤内閣による「人間尊重」「社会開発」の基本政策が推進されていきましたが、オリンピック景気後の反動から、戦後もっとも厳しい不況の年となりました。41年は、深刻な不況からしだいに回復してきましたが、都市と農村、大企業と中小企業のひずみが拡大し、また、公害の問題が深刻化した年でもありました。さらに、自動車による死傷者の激増から、この年「交通戦争」という新語が生まれました。

 文教施策の面では、40年は、道徳教育の強化を焦点に進められています。同年1月、中央教育審議会が「期待される人間像」の中間草案を発表しました。このなかで「人間像の分裂」「民族性の忘却」「民主主義の未成熟」の3課題を当面の要請として採り上げたほか、国旗、国歌、天皇についてもふれ、「天皇を敬愛すること、日本を敬愛することは一つである」という内容が盛り込まれていました。この中間草案に対する反響はかなり大きく、また長く尾を引きました。さらに同年4月、文部省から『指導資料』第1集が全教師に無償配布され、全国で120の実験学校が設置されました。中学卒業者の高等学校進学率が全国平均70パーセントを超えたのはこの年4月です。またこの年、大学(4年制・短期)学生数は100万人を突破し、そのうち72パーセントが私立大学生でした。

 41年における文教政策は、従来の路線を引き継ぎ、義務教育の改善充実、大学教育の拡充、科学技術教育の振興、社会教育の強化、芸術文化行政の充実などを基本に進められましたが、とくに学校教育と並んで社会・家庭教育との「三位一体」をとなえた点が注目されます。中央教育審議会が、38年5月に、当時の荒木文相から諮問された「後期中等教育の拡充整備について」の最終答申を行ったのはこの年10月でした。またこの年には、5歳児の幼稚園就園率が44.3パーセントに、保育所在籍率が23.8パーセントに達しています。

鉄筋の4階建て生徒寮落成

 昭和40年度の入学者は254名(普通科3学級138、家庭科3学級116)であり、また、附設幼稚園は126名の入園児があり、合計258名となりました。

 ところで、昭和20年、終戦とともに、戦時中抑圧されていた言論の自由が一挙に爆発し、各学校においては盛んに学校新聞の発行を企画し刊行するようになりました。本校においても同窓会の名称にちなみ『みすゞ』と題して数年の間続刊しました。が、熱病的一時の風潮にのった感をまぬかれず、他の多くの学校のそれと同様、しぜんにその刊行が困難となり、ついには中断せざるをえなくなり、現在刊行されている生徒会機関誌『もえぎ』のみとなりました。

 しかしながら、本校校運の隆盛にともない、学校新聞の再刊が生徒間におこり、ようやくその機が熟してきました。そして、40年度を期して再生第1号『TJKタイムズ』発行の運びとなりました。

 40年10月27日開催された愛知県私学祭音楽会には生徒58名が参加しました。なお当日の私学祭式典にはPTA副会長の今泉高夫氏に保護者感謝状が贈られました。翌41年10月25日に開催された私学祭音楽会には生徒68名が参加し、同日の式典には、25年勤続者として高倉久美子教諭、優良模範生徒として山下みさ子がそれぞれ表彰を受けました。

 41年度入学者は253名(普通科3学級138、家政科3学級115)でした。

 生徒寮建設のための地鎮祭を催したのは同年8月4日であり、同日より建築工事に着手しました。施工者(株)原田工務店、設計者竹尾一級建築士事務所により工事が進められていたこの鉄筋コンクリート4階建て生徒寮(延べ558平方メートル)が、総工費2,060万円を要して竣工したのは42年2月11日でした。

 なお、愛知県私立幼稚園退職金基金財団設立が認可されたのは41年4月21日です。この財団の発足により、県下私立幼稚園に勤務する教職員は、退職時に公立学校教職員と同率の退職一時金を支給されることになりましたので、懸念なく保育に専心できるようになりました。

不慮の災害続く

 昭和40年から41年にかけては、ゆくりなくも多くの災害に遭遇した年でした。まず40年9月17日には、同月10日の台風23号に続いて24号が襲来し、校舎の屋根瓦5, 60枚を飛散させ、さらに雨漏りやガラスを破損しました。

 翌41年には、夏休みに入っていた8月7日午前0時54分ごろ、運動場南西隅にある体育器具庫、木造瓦ぶき平屋1棟(49.5平方メートル)が全焼し、体育器具一切を消失するという災害が発生しました(損害額約100万円)。上水道の水圧が低く、しかも防火用水設備もないところから、その設置の必要性が説かれていた矢先のできごとでした。のち、この火災事故の原因は第三者の過失と認定されましたが、いずれにしても、体育はしばらく支障をきたしました。軽量鉄骨による体育器具庫再建工事が進められたのは8月30日からです。

 同年10月12日は体育祭の日でした。早朝から小雨が降り開会が危ぶまれましたが予定どおり開会し、降りみ降らずみのなかで続行しました。しかし、正午ごろから豪雨となったため、やむなく体育祭を中止し生徒を下校させました。午後から夜間にかけて集中豪雨(界雷豪雨)となり、山田川が氾濫し、東海道本線を越えて泥水が浸入してきました。そして、全校舎は床上約30センチの浸水、寄宿舎も床上約60センチ浸水し、運動場も泥水に洗われるという予期しない被害を受けました。また、被災教職員は2名、被災生徒は23名に及びました。授業が正常に復したのは10月14日からです。幼稚園は同月15日まで休園としました。次いで同月17日、生徒会が床上浸水の生徒家庭を見舞うため募金運動をはじめると、教職員・生徒から2万2,840円醵出されました。そして、1世帯各千円と生徒会として千円、そのほか体育祭賞品ノートなどが被災生徒宅に贈り届けられました。

価値観の多様化、世代間の断絶のなかで・・・・・・

 沖縄・小笠原の返還問題が政治的課題として大きく採り上げられたのは昭和42年でしたが、また、経済の動きで特徴とすべきことは、同年7月、貿易と資本の自由化による本格的な開放経済体制に入ったことです。翌43年は、国際的には、5月、ベトナム戦争の平和的解決を求めてパリ和平会議が開かれたこと、7月、核拡散防止条約が62ヵ国によって調印され、国際政治に明るさを加えた年でした。国内では、この43年は、国民に強く印象づけた沖縄をめぐる問題、全国100以上の学園でおこった大学紛争・・・・・・と、多事・激動の年でした。小笠原諸島が正式に日本に復帰したのは同年6月です。また、同年10月には明治100年の記念式典が東京で行われ、全国都道府県でも100年記念の行事が行われました。44年の世界におこった出来事のなかで明らかな成果は、7月、アメリカのアポロ11号による人間の月到達という偉業でしょう。国内では、44年は、1月の東京大学安田講堂に対する機動隊の導入にはじまり、12月の総選挙投票にいたるまで、まさに激動の1年でした。なかでも、沖縄の施政権を昭和47年に返還するという日米共同声明が11月に行われたことは画期的なできごとでした。一方、いわゆる昭和元禄とよばれる繁栄のなかで、価値観の動揺と多様化、世代間の断絶が大きな課題となったのもこの年の特徴でした。

 続いて、教育の分野をみると、まず42年には、教育の正常化が軌道に乗ってきたことです。なかでも高等学校入試の改善は、内申書重視を軸に全国的にさまざまな試みが活発に行われました。文部省はさらに一歩進め、21世紀に生きる近代的な人間形成をめざす新しい教育をつくるため、同年7月、「小学校教育課程改善について」の中間報告を教育課程審議会から受け、「学習指導要領」の作成に入りました。中学校も同じく改善作業が進められました。臨時私立学校振興方策調査会が「私立学校振興方策の改善について」答申したのは同年6月、理科教育および産業教育審議会が「高等学校における職業教育等の多様化について」答申したのは同年8月です。社会教育の分野では、同年6月、社会教育審議会が新しいPTAのあり方をまとめ文部大臣に報告しました。そしてPTAが、学校後援団体化した現状を戒め、PTA会費の公費負担禁止は明文化こそしなかったけれども、教育の理解を深め、会員相互の学習を通じ、子どもの幸福と教育を考えることを主眼におくよう新しい「PTA憲法」を決めたことです。

 文部省が教育白書『わが国の私立学校』を発表したのは43年4月でした。翌44年の文教施策をみると、大学問題が中心となっています。中央教育審議会が坂田文相に「今後における学校教育の総合的な拡充整備のための基本的施策について」の中間報告を出したのは同年6月、次いで、教育課程審議会が「高等学校教育課程の改善について」答申したのは同年9月です。政府が、ラジオ・テレビを利用して高等教育をする「放送大学」の具体化について本格的な検討をはじめたのは翌10月でした。

県下初の保育科設置

 昭和42年度の附設幼稚園在籍園児は279名でしたが、全国的に中学卒業生の数が激減してきたことから、高等学校進学者の数に影響を及ぼし、同年度の入学者は163名(普通科2学級81、家政科2学級82)となりました。このことは本校の経営上にも影響を与え、このための対策が種々考慮されたのでした。あとで述べる保育科の設置はそのひとつといえましょう。

 設備が急がれていた防火用水兼用の池が正門横に完成したのは同年9月9日です(経費約40万円)。

 施設・設備の完備と並行して教育内容の充実にいちだんと努力し、前述の保育科新設を申請したのは同月25日であり、同年12月20日に受理されました。こうして、地域社会の要望にそい、女子のみの学園の特質を生かして、43年度から県下唯一の保育科を設置し、この新しい分野と取り組むことになりました。

 42年10月20日に開催された恒例の愛知県私学祭式典には、40年勤続者として高倉すゞ前理事長、20年勤続者として高倉良爾校長、中村要教諭、15年勤続者として竹田宗郁教諭がそれぞれ表彰を受けています。さらに翌11月10日に開催された愛知県私立幼稚園協会主催の幼稚園祭にも、10年以上勤続者として長島或子、斉藤玲子両教諭も表彰されました。

 同年11月22・23両日開催した学園祭には保護者、一般来観者多数が来校し、にぎわいを呈しました。ことに第7回古今名士筆蹟展は名物となった感がありました。

 43年度の在籍園児は309名となり、一方、高等学校入学者も226名(普通科2学級63、家政科2学級85、保育科2学級78)となり、中学卒業生の減少にもかかわらず前年度より入学者数が増加したことは明るい見通しでした。

本館兼体育館落成

 昭和43年度で特筆すべきことは、まず、本学園理事でもある中村要教諭が、4月29日、春の生存者叙勲で多年教育に尽くした功績により勲五等に叙せられ瑞宝章を授与されたことです(5月10日授与式)。数多い教育者のなかから選ばれた中村教諭の名誉はいうに及ばず本学園・本校の名誉でもありました。中村教諭は、教育に従事すること54年余、公立小学校、青年学校に、あるいは教育委員、教育長として教育行政に、さらに私学の教育に携わり、その振興に寄与してきたのでした。

 なお、同年11月26日に開催された愛知県私学祭式典(愛知県私学協会創立20周年)には、20年勤続者として鈴木定雄講師、15年勤続者として新井秀子教諭、優良模範生徒として鈴木百枝がそれぞれ表彰され、高倉すゞ前理事長、高倉良爾校長、高倉久美子教諭にはそれぞれ感謝状が贈られています。さらに翌44年10月28日の私学祭にも、15年勤続者として中野真一郎先生、優良模範生徒として滝本陽子がそれぞれ表彰され、PTA会長の海野久栄氏には保護者感謝状が贈られ、また翌11月17日には、高倉校長も、永年幼児教育に精進し、私学振興に尽くした功績により愛知県知事賞を受賞するという重ね重ねの栄誉に浴しました。

 愛知県私学振興資金融資などにより、木造校舎(4棟)を解体し本館兼体育館等の建設に着手したのは43年です。すなわち、同年11月15日から前記の木造校舎解体工事を進め、それがほとんど完了した同月27日に地鎮祭を催しました。

 施工者(株)原田工務店、設計者(株)竹尾設計事務所により建設工事が進められていた本館兼体育館等(延べ1,542.84平方メートル)が竣工したのは44年6月30日であり(総工費4,900万円)、こうして、生徒が一堂に会し得るところをと数年来夢に描いていた待望の施設が完成しました。

創立45周年の年輪を刻む

 昭和44年度の在校生は585名(普通科218、家政科253、保育科114)となりました。

 このころから、全国各地の高等学校卒業式で、反体制答辞を読み上げたり、卒業式反対をとなえるなど憂うべき状況がみられるようになりました。とくに44年に入ると、全国的な大学紛争の影響が県内高等学校にエスカレートし、豊橋地方でも、某高等学校で校長排斥運動がおこり、また、他の学園でも非行生徒処分についての反対運動がおこるなど、なげかわしい風潮が広がりつつありました。したがって、いっそう本校教育の「和」を中心とした真の人間教育の場が必要であると高倉校長以下教職員は痛感したのでした。

 迎えてこの44年は創立45周年記念にあたっていました。そこで4月16日、45周年記念行事委員の初会合を開き、記念行事の具体策について検討しました。創立記念日の10月3日には、講堂において校長訓話を行い、また、たまたま「法の日」にあたっていたことから、名古屋家庭裁判所豊橋支部主任調査官鮎川幸子氏による記念講演会を催し、映画「裁判所のABC」を上映しました。

 創立45周年・附設幼稚園創立20年・本館兼体育館竣工披露記念式典は、好天に恵まれた44年11月21日、午前10時から新築の講堂において催しました。当日は、衆議院議員穂積七郎、豊橋市長代理・教育庁長谷川博彦、市議会議員鈴木豊三郎、同河合重光、愛知県私学協会会長村瀬亮音各氏をはじめ、各小、中学校校長、各高等学校校長など教育関係者約200人の来賓とPTA会長海野久栄氏以下役員60余人が参列しました。

 式辞のなかで、高倉校長は、「物情騒然たる現代の世相にあって真に落ち着きのある学園を経営することは困難かと思われますが、この世相に押し流されることなく、教育は人間と人間の魂のふれあうところに行われることを信じ、世界的視野に立ったりっぱな日本人、そして日本の母を養成していく覚悟でございます」と決意を述べ、さらに、「積雪の重圧にも耐え、強い風雨にも負けず、すくすくと伸びる青竹にはその一節一節が大切であります。本校がここに45周年、幼稚園創立20年の年輪を重ね、一つの節を迎え、ここまで成長してきましたことは本学園の教育に対し深いご理解とご支援をいただく父兄各位ならびに大方諸賢の賜物であり、過去本校に職を奉じていただいた旧職員の方々の力であり、なおまた本校を卒業し立派に社会人として活躍している数多くの卒業生の力であると信じています」と関係各位の支援・協力に感謝するとともに、最後に在校生徒に対し、今後末永く続く後輩のよき先輩としてこの施設を有効に活用し、いよいよ本校の真価を高めるように学業に努力することを望んだのでした。そしてこの記念式典の後、次の教職員を永年勤続者として表彰しました。

 20年以上 高倉すゞ、高倉久美子、鈴木定雄
 15年以上 竹田宗郁、中野真一郎、新井秀子
 10年以上 中村要、清水定平、関本炎治、平岩ふみ、長島或子
  5年以上 村田隆雄、桜井彦治、土田修一、時野義修、外山元一、片岡哲夫、
      天野和子、河合和子、柴田美恵子、富田哲子

 続いて盛大に祝宴を催しました。さらに、11月22・23両日には記念学園祭を催し一般に公開しました。

新たなる出発たびだち

 従来、愛知県における私学助成は「愛知県私立学校助成交付要綱」によって取り扱われていましたが、昭和44年3月1日に「愛知県学校法人助成条例」ができ、学校法人私立学校に対する助成が制度化されました。もちろん、学校法人立でない幼稚園に対する助成は従来どおり「交付要綱」によるわけですが、いずれにしても、私立幼稚園の数は増加し、44年度は、県内公立幼稚園数60、園児1万968名に対し、私立幼稚園数は292、園児6万8,658名となりました。

 45年1月24日、本校は、全国高等学校校長協会主催家庭科技術検定の被服一級試験場となりました。そして、刈谷北高校・鳳来寺高校・県立豊橋聾学校・一宮分校などから生徒14名、本校からも14名が受験し、本校生徒は洋裁の部で7名、和裁の部で6名が合格しました。さらに同月30日に行われた食物一級試験では、受験した本校生徒6名が全員合格しました。

 翌2月25日午前10時、来賓として愛知県知事・豊橋市長各代理、各中学校校長など教育関係者やPTA役員約40人と父兄68人を迎え、44年度の掉尾を飾る卒業式を挙行しました。前年来、県下の高等学校卒業式では何かと混乱が生じがちで、ある学校では「君が代」の取扱いをめぐって対立し、ついには卒業式を延期するという事態にまで立ちいたっていますが、幸い本校ではいとも厳粛に式が進められ、普通科82名、家政科80名の卒業生が巣立ちました。附設幼稚園も3月23日に卒園式を講堂で行い、138名を送り出しました。なお、前にもふれましたが、44年度には県内私立幼稚園数は292園、園児数は6万8,658名を数えるようになり、愛知県私立幼稚園協会結成(25年2月)当時に比較して、園数で6倍、園児数で17倍となりました。

 環境は人を生む。本校が清流柳生河畔に開校したころは、せり、なずなが生い茂る田園情緒豊かな環境でした。かなた三遠にまたがる赤石の連峰を朝にながめ、そのさわやかさ、うるわしさは心の底まで清めてくれるものがあり、田圃、畑をめぐり流れる柳生川は小魚を泳がせていました。以来、ここに45年の年輪を刻みました。

 その間、施設・設備の不備を補うに教職員の教育愛と研究心、師弟の強い精神的なつながりをもちつつ、「純良」「健全」「有為」をモットーに掲げて日々つとめ、青春をたぎらせた乙女たちは、幸福を求めて船出しようと純情ただひとすじにむつみあい、励ましあってきました。

 そして本校は、いっそう着実勤勉で、家庭的に有為な婦人養成をめざし、さらに創立50周年をめざして、新たなる出発たびだちをはじめました。

女子私学教育の理想を掲げて

中教審、「第3の教育改革」答申

 70年代とよばれる新しい時代の第1年を迎えた昭和45年、国内ではこの年の後半から日中国交改善をめざす動きが急速な広がりをみせました。大阪府吹田市の千里丘陵においてアジアで初の日本万国博覧会が開催されたのはこの年です(3月14日~9月13日)。翌46年の世界は、戦後の秩序が明らかに再編成の段階に入ったことを思わせました。そのもっとも大きな要因は、アメリカのニクソン大統領が実行に移した対中国政策の転換でした。次に、中華人民共和国の国連参加が実現したことです(10月)。国内では、この年、日米間で沖縄返還協定の調印が行われ(6月)、沖縄県民の悲願が26年ぶりに実現しました。

 この両年における文教施策に目を転じると、まず45年には、前年に広がった大学紛争が次々収束に向かったため、教育改革にどう取り組むかが中心的な課題となりました。そして、中央教育審議会が「高等教育の改革に関する基本構想」(5月)、「初等・中等教育の改革に関する基本構想」(11月)をそれぞれ文部大臣に中間答申しています。「日本私学振興財団法」が公布されたのは同年5月です。翌46年で目だつのは、6月、中央教育審議会が、わが国の教育制度全般にわたる改革案を盛り込んだ「今後における学校教育の総合的な拡充整備のための基本的施策について」を文部大臣に最終答申したことです。この答申は、明治初年の学制頒布、第2次世界大戦後の教育改革に次ぐ「第3の教育改革」をめざすもので、戦後24年間続いてきた6・3・3・4制に将来なんらかの改革を加えることを含みとした具体策を提案しています。これにより、7月、文部省に教育改革推進本部が設置されました。

多彩な学園の行事

 昭和45・46両年度における本校のあゆみをみると、まず45年度の入学者は189名(普通科2学級70、家政科2学級79、保育科1学級40)であり、一方、附設幼稚園の同年度在籍園児は346名でした。

 栄養改善運動の一環として、人形劇を通じてフライパン運動を開始したのは45年6月からです。そして同年11月21日には、東京・安田生命ホールにおいて開催された第8回全国女子高校生による栄養改善運動発表会に参加しました。

 また附設幼稚園では、同年6月17日午前9時30分から11時30分にわたり、図書室において、西脇正治講師により第1回若妻学級を開設しています(42人参加)。1・2年生がバス8台に分乗して万博見学に出発したのは6月1日でした。

 同年10月21日に開催された恒例の愛知県私学祭式典の際、優良模範生徒として清水夫美子が表彰され、PTA副会長の倉田重徳氏には保護者感謝状が贈られました。翌46年10月19日の私学祭にも優良模範生徒として富永睦子が表彰され、PTA会計の藤田豊次氏に保護者感謝状が贈られています。

 また、45年8月に施行された第1次保母試験には保育科第1回生76名が受験し、8科目合格12名、7科目合格20名、6科目合格10名、5科目合格9名、4科目合格11名の成績をあげました。引き続き翌46年2月に施行された第2次同試験を受験した生徒は大部分が資格を取得し、希望者はすべて幼稚園、保育園の就職が決まって、同年3月1日、巣立って行きました。

 全国高等学校校長協会主催家庭科技術検定の被服一級試験場に本校が選ばれたのは46年1月23日であり、当日、本校生徒は洋裁の部で5名、和裁の部で6名が受験し、全員合格しました。なお、愛知県私学会館の建設は愛知県私学会多年の要望であり念願でしたが、昭和39年以来会館建設の具体化が進み、44年12月に着工し、翌45年12月、地下2階・地上9階(延べ面積約8,300平方メートル・建築費7億5千万円)の近代的ビルが名古屋市千種区に落成しました。

 46年度の入学者は244名(普通科87、家政科123、保育科34)でした。同年6月20日には県立豊丘高校において家庭クラブ県内研究発表会が開催され参加しました。

 クラブ活動が活発になり花開くのは例年夏休み中です。46年度も、バレー・ソフト・卓球・庭球・バスケット・体操各部が合宿して技をみがきました。

 同年11月23・24両日、学園祭を華々しく開幕しました。第1日目は小春日和の絶好の日、しかも「勤労感謝の日」でもあり、また、新聞にちらしを折り込んだ効果もあって、一般来観者約400人を数えました。第2日目も晴天に恵まれ、約350人が来校しました。

 名士筆蹟展の会場は年々来観者が増えており、46年度は色紙を廃止し軸物が主でした。書道拓本展には生徒の努力作品を1人1点出品し、保育科子ども室には造形など短期間にきめの細かい作品が出品されました。英語クラブの生徒による英語劇は初めてにしてはなかなかの出来という評判、生徒の手による消費展も新しい行き方として評判をよびました。また、植木展販売では売上げ11万余にのぼりました。このほか、食堂バザー、家庭クラブ室、ファッションショー、演劇、奉仕品、国語展示、社会、保健、被服、英語、図書などいずれも生徒たちが自発的に行い、数々の絵巻物を繰り広げていった多彩なこの学園祭の行事は、成功裏に終了しました。

 (株)原田工務店に依頼し、附設幼稚園園舎(遊戯室)増築工事(137.7平方メートル)を開始したのは47年1月11日です。この工事は、同年3月15日に完成しました(総工費430万円)。

「学制」頒布100年を迎えて

 昭和47年度における国際政局でセンセーショナルな事件は、2月、ニクソン米大統領が歴史的な中国訪問の第一歩を印し、続いて、米中間平和共存に関する共同声明を発表したことです。さらに同年5月、同大統領はモスクワを訪問し、ソ連首脳部との間に各種の協定を結びました。国内では、沖縄の施政権返還で沖縄県が発足し、県民90万人が日本人としての権利を回復したのは同年5月でした。佐藤内閣が総辞職し、「日本列島改造論」を掲げて田中内閣が登場したのはこの年7月であり、日中の平和友好条約締結に同意し、歴史的な共同声明が発表されたのは同年9月です。翌48年の世界の大きな出来事としては、第一にベトナム平和協定の調印(1月)、第二に米ソ首脳会談(6月)、第三に第4次中央戦争の3つをあげることができます。国内では、この年は、石油危機に揺さぶられて不安と混乱のうちに越年しました。すなわち、十年戦争でアラブ側が発動した石油戦略は、国内にパニック的な状況をひきおこし主婦の買いだめ騒ぎから「物価統制令」の復活にいたるまで、上を下への異常事態を招きました。そして、経済大国が資源小国であることが明らかとなり、石油危機とインフレ激化の相乗作用で、高度成長経済に赤信号が点ぜられたというのが一般の認識となりました。

 この両年における教育施策では、まず、47年6月に「学校指導要領」が改訂され、48年度の新入生から新しい高校用教科書が使用されることになりました。新教科書には、公害と消費者保護についての記述、このほか、数学にコンピュータが登場したり、世界史に中国の国連加盟が登場するなど、時代の変化にともない新しい内容が盛られることになりました。「・・・・・・むらに不学の戸なく家に不学の人なからしめん・・・・・・」とする「学制」が明治5年に頒布されてから、数えて昭和47年は100年。この学制100年式典が東京・日本武道館で行われたのは10月5日でした。

 中央教育審議会が、46年6月に「第3の教育改革」を発表しましたが、この構想の実現は遅々として進まず、この線にそった48年の動きとして注目すべきものは、「筑波大学法」の成立(9月)と教育課程の再編をめざす審議の開始でした。高等教育懇談会が、大学の進学率が昭和60年には40パーセントに達すると予測を発表したのは同年3月です。同年12月には国連総会が国連大学本部を日本に設備することを決定しました。

 また、文部省の学校基本調査によると、48年度の幼稚園就園率は60.6パーセントと初めて60パーセント台を記録し、昭和30年の20.1パーセントの3倍に達しました。同調査は、さらに48年度の高校進学率全国平均が89.4パーセントに達したと述べています。しかも、男女別の進学率では、4年前の44年から女子のほうが男子を上回る「女性上位」時代となっており、48年には女子の進学率は90.7パーセントと90パーセント台に突入し、男子は88.6パーセントでその差は年々開いていると記しています。

 この48年に入ると、公害の発生、全国的な都市化の進行のなかで、工業化と経済成長主義に対する批判の声が高まり、それとともに、人間回復、自由と人権の要求も強くなってきました。さらに、日本は海外の資源・市場に依存して経済の発展をはかってきましたが、それだけに、日本の教育内容の国際化もまた緊急となってきました。48年の日本の教育は、これらの問題を抱えて一進一退を続けたといえるようです。

昭和47・48年度のあゆみ

 昭和47年度の入学者は203名(普通科69、家政科96、保育科38)であり同年度附設幼稚園の在籍園児は366名でした。

 同年10月3日の創立48周年記念日には簡素な式を行ったのち、約1時間にわたり、前講師中川実氏に依頼して「日本人からみたドイツ人の市民生活」の講演会を催しました。同月18日に名古屋市公会堂において開催された愛知県私学祭には高倉校長、PTA会長小木曾千氏らが参列し、優良模範生徒として榊原峰代が表彰され、前記小木曾氏には保護者感謝状が贈られました。また私学祭音楽会には、バス1台を借り切って保育科2・3年生および若干の1年生合わせて50名が参加しました。豊橋市民文化会館において私学弁論大会が開催されたのは同年11月10日です。

 豊橋市内の保育園・幼稚園・小学校に赤痢が集団発生したのはこの年であり、12月20日現在120人に及びました。そのなかには附設幼稚園児7名とその家族7名、合計14名が含まれていました。

 この赤痢集団発生に続き、47年度のあゆみのなかで悲痛な出来事は、前理事長高倉すゞ舎監が逝去したことです。48年1月28日、病床に伏しましたが、薬石効なく、ついに翌2月7日午前4時50分、不帰の客となりました。享年78歳でした。先代の高倉半次郎第3代校長夫人として、ともども辛酸を重ねて創設期の本校の礎を築き、昭和19年1月、先代高倉校長の死去のあとを継いで財団法人総和学園理事長となり、昭和22年までその任にありました。その間は、戦争末期から終戦直後の混乱その極に達した時期でした。「学校のおばあちゃん」として、寮生はもちろんのこと、全教職員・生徒から慕われ、本校の歴史とともに歩んだ生涯だけに、創立50周年を目前にしてのその死は、いっそう悲しみに満ちたものとなりました。悟真寺においてしめやかに学園葬を執り行ったのは2月9日でした。

 48年3月9日には豊橋市私学助成金増額請願署名運動に参加しました。そして、同月12日には市議会事務局へ請願し、次いで、翌13日には市長に陳情しました。

 48年度の入学者は258名(普通科91、家政科132、保育科35)であり、同年度附設幼稚園の在籍園児は361名でした。

 同年7月20日から同月22日にわたっては、「県民の森」において1年生251名が恒例のキャンプ生活をしました。同年10月3日の創立記念日には、午前9時半から中部日本新聞社論説委員藤原一郎氏の講演会を催し、次いで、12時から校内弁論大会を開催しています。また同月25日から4日間は、附設幼稚園では、園児たちにより芋掘り小遠足が行われました。翌11月1日に開催された愛知県私学祭式典の際、本校関係者では、25年勤続者として鈴木定雄講師、20年勤続者として竹田宗郁・新井秀子両教諭、15年勤続者として清水定吉教諭、優良模範生徒として袴田三枝子がそれぞれ表彰され、PTA会長の高津中夫氏には保護者感謝状が贈られました。

 さて創立50周年を記念して木造校舎を改増築し、鉄筋コンクリート3階建て(理科室1、洋裁室2、普通教室6)の建設が計画され、(株)原田工務店との間に校舎改増築工事について正式契約を結んだのは48年11月2日です。続いて、同月16日には仮設2教室の建設がはじまり、同月27日には木造校舎(690.65平方メートル)の解体作業が進められ、翌12月1日、改増築工事に着手しました。この改増築工事(1,231.28平方メートル)は49年6月30日に竣工しました(工事費8,230万円)。

 48年度の卒業式は49年3月1日に挙行し、普通科82名、家政科114名、保育科34名、合計230名が巣立ちました。これにより、創立以来48年度までの卒業生総数は4,846名となりました。一方、開園以来、48年までに2,441名の園児を送り出しました。49年度の入学者は248名(普通科92、家政科108、保育科48)であり、在籍園児は348名でした。

創立50周年――未来はぐくむ「和」の校風
一、みどりこき 三遠の山
  ほのぼのと 朝陽にほへば
  もやとけて 柳生河畔を
  うきいでし うきいでし
  わが 豊橋女子高校
二、師と友と なごみむつみて
  身と心すぐに 明るく
  進む世の 業々すべて
  きはめなん きはめなん
  あゝ たのしあけくれ
三、見はるかす 太平洋上
  やがて来ん 幸ある船出
  こひのみて たゞ一途に
  おのがじし おのがじし
  こゝ 豊橋女子高校

 この校歌は先代の高倉半次郎第3代校長の作詩・作曲になるもので、この学舎に学んだ者、学ぶ者の愛唱やまないものであり、「師と友と、なごみむつみて」という「和」の精神が、建学以来脈々と伝えられています。

 大正13年10月3日、愛知県和洋裁縫女学校として南設楽郡新城町(現新城市)に呱々の声をあげた本校は、同15年2月に現在地に新築移転し、今日の隆盛の基礎をかためました。そして昭和49年10月3日、創立50周年の佳節を迎えることになりました。

 この50年の学校発展史の裏面には「波あり風あり、実に平穏な時期は、本当に僅かしかない」と『学校沿革誌』の冒頭に書かれていますが、歴代校長、とくに先代高倉半次郎校長、現高倉良爾校長の「和」を尊ぶ伝統の「誠実な教育方針」とその実績が、東三河地方の人々に認められて今日の大をなしたものといえましょう。

 高倉現校長は、「女性らしさ」ということをとくに強調し、かつて生徒会機関誌『もえぎ』第6号(昭和38年2月)の「巻頭言」で次のように述べています。

”女性らしさ”といえば何か封建的なニューアンスが感ぜられるが、私は人類生存以来女性が歩いてきた、又将来歩いてゆくであろう事柄を端的に表現したものであると思う。すなわち人類生存の歴史を省みたとき、男性は山野にでて狩猟に、女性は木の実、草の実をと、動的と静的に異り、男性は意志的に女性は感情的にとそれぞれ神から与えられた使命を果すことができるよう身体的にも出来ている。”女性らしさ”の意味するところは、時代により多少その内容を異にするものの、前述のような根本的なことを忘れてはならないと思う。殊に次の世代を養育する重要な責務は女性に与えられた特権である。この使命に徹したところに”女性らしさ”が生まれる。しかしながらこれを更により美しくするものは不断の教養であり、自己の品位を無限に向上させようとする個人の努力によるものである。(中略)特にこれからの社会を形成する女性にあっては「自己」の個性を美しく表現し主張する反面、「他」の存在の重要さも認識し、その社会の調和を保つ能力を養いそれぞれの社会にあって必要にして愛されることが大切である。

 いうまでもなく、開校以来高く掲げてきた「着実有為なる婦女の養成」です。家庭第一、家庭がしっかり守れなければ次代もよくならない。この教育方針は建学の精神でもあります。

 「学制」でスタートした教育百年は、いわば量的拡大の時代でした。今後の百年は、変容の時代に対処して量から質への時代といわれています。一方においては、技術革新時代であり月への着陸が可能になった反面、他方では神話が復活するなど、複雑なものが矛盾したまま結びつきながら動いているのが現代であり、また日本の現状でもあります。物的な繁栄の反面には人間性疎外の問題が露呈され、経済的な成長の反面には自然性が犠牲にされ、公害が続出し、内面的な道徳性の未熟さが暴露されつつあります。しかし、同時に、現代のような物的繁栄の時代においてこそ、かえって心の面の教育が必要となり、人間性の回復が要求されて、今日、学校教育のあり方をめぐっていろいろの批判や反省が行われているのも事実です。

 これまで、学校で授けられる知識は、なによりも「成績」や「学歴」取得の手段として使用され、これが大勢となってきました。学歴採用の慣行は、もともと学校による人材登用の序列の基準を整理したもので、したがって、その限りでは一種の合理性をもっています。しかし、これが学校教育と社会生活の両面にわたってもたらしている弊害には黙視できないものがあります。日本の学校教育の最大の難点は「教育と生活の遊離」だといわれています。

 創立45周年・附設幼稚園創立20年記念式典の式辞のなかで、高倉校長は、「・・・・・・教育は人間と人間の魂のふれあうところに行われることを信じ、世界的視野に立ったりっぱな日本人そして日本の母を養成していく覚悟でございます」と決意を述べていますが、「教育の生活化」――本校においては、基礎学力の充実はもとより、技術教育の充実、道徳教育の徹底と実践などに重点をおく一方、教師と生徒との魂のふれあいを軸として、単に知的能力の育成にとどまらず、いかなる変動のなかにあってもたくましく生き、情緒的安定、人間的豊かさをもった全人格的な成長をめざし、しかも、生徒の個性の発見とその伸長をはかり、それぞれの特性に応じた完全教育を目標として指導してきました。附設幼稚園教育でも、児童の個性を望ましい方向に指導する積極性と、児童の本性から発する自発性を尊重し、これを助長する消極性とが教育の重要な二つの面であり、それがともに調和的に行われるのがもっとも望ましいとして園児と接してきました。

 学校教育にさまざまな問題を内包している今日、女子私学教育の理念を掲げてあゆむ豊橋女子高等学校は、50年の歴史と伝統と教育改革とを対峙させ、その確かめあいを基点として、ポスト百年に向かって、ふたたび、新たな歴史的なあゆみをはじめなければなりません。しかし、「和」のうえに培われた校風、これが、本校の未来をはぐくんでいくことを信じます。

編集:高倉学園創立50周年記念誌編纂委員会(高倉良爾、竹田宗郁、新井秀子、高倉一代)
執筆:坂本利秋(凸版印刷)
制作:トッパン アイデア センター
発行:学校法人高倉学園 昭和49年11月1日
印刷:凸版印刷株式会社

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